茂木考6

昨日のNHK『プロフェッショナル 宮崎駿編』を見てもうひとつ気付いたことがある。それは、毎回ほぼ完璧な「聞き手」を勤め上げている茂木健一郎が宮崎邸で行われた対談に於いて全く機能していなかったことだ。

なぜか。これは、宮崎邸に向かうタクシーの車中まで仕事をしなければならないほど忙殺されていて頭がスッキリしていなかったというわけではもちろんない。「名声」に関する宮崎の答えが、茂木健未整理の領域を激しく突いたからだ。

茂木健は、彼の著作『「脳」整理法』を読んでも分かるように、人類の過去の業績を、科学、思想の垣根を越えて、驚くほど広範に理解し整理完了している。そのことが、各プロフェッショナル達の話をあれほどまでに上手に引き出す基盤となっているのであるが、これは裏を返せば、茂木健が彼らの話す領域に既に接近、あるいは到達していることを意味する。であるが故に、ピッチャー茂木健は、彼らが最も力を発揮することが出来るストライクゾーンに、ホームランボールを投げ込むことが出来るのだ。

しかしながら今回の茂木健は、宮崎が「名声など何の意味もない。今しかないのだから」と答えたときに、いつもの明晰さを失った。私の見立てに間違いなければ、存在に関わる不安にすら追い込まれたはずだ。彼の思想の根源部分における永年に渡る不安。

茂木健が何故あれほどまでに忙しく活動しているのか。それは、自分が人類の未来に決定的ポジティブインパクトをもたらす一握りの存在になりうると信じているからだ。決して誤解されたくないのだが、俺様は彼のこういう姿勢に凄く好感を持っているし、もしかしたら「統合した者」として歴史に名を刻む可能性もあるんじゃないかとさえ期待している。また、莫大な利益を享受する我々一般人はもっともっと一握りの天才に感謝しなければならないとも子供の頃から感じ続けてきた。だから彼のそういった姿勢を批判するつもりなど毛頭ない。ただ、それをモチベーションに生きている人に、宮崎のような人間がしたああいう答えはきっと効くだろうな、と斟酌したのだ。

「名声」というと分かりにくいかもしれない。茂木健が「名声」など求めているようには思えないからだ。しかし、それを「業績」と言い換えたらどうだろう。彼は言うまでもなく「学者」あるいは「研究者」であり、その世界に身を起き続けている。そうでない人たちにはピンと来ないかもしれないが、「学者」に類する人たちにとって「業績」というものは自己の存在そのものなのだ。其処が今回揺さぶられた。七つの腕に七本のバットを持って仁王立ちに構えるモンスター宮崎に対して、ストライクゾーンが何処にあるのか判別せず、何処にどんなボールを投げて良いのか今回ばかりはさっぱり分からなかった、というのが実情だったのではないだろうか。

今回の件で思い出したのが、ニュートリノ小柴昌俊教授だ。彼は、ノーベル賞を受賞時に開かれた各ノーベル賞受賞者を集めた公開座談会で、大いなる波風を立てた。「大切なことは、我々が今回発見した事柄は、仮に我々が発見しなかったとしても、何れ誰かが発見しただろうということです」という彼の言葉。それを発した場ということも加味すれば、人類最高度とも言えるその言葉に、一人か二人を除いた大半の科学者がヒステリックな反応を示した。「自分の業績」なのだと。自分がいなければならなかったのだと。彼ら一握りの天才に対する敬意とは別に、それでもそういう反応をする人たちは「発見」の意味がよく理解できていないんじゃないかと思う。

昨日のエントリーで、阿頼耶識の“こちら側”と“向こう側”という話を書いた。その言葉を使うなら、茂木健と件の科学者達は、“こちら側”に強くウエイトが掛かっている気がする。小柴教授と宮崎駿(の答え)は、“向こう側”だ。どちらが正しいか、などと言うつもりはあまりない。ただ、“向こう側”にウエイトを掛けていたとしても何かを為すことは出来るし、茂木健が以前から強く感じていた「自分がいなくなってしまった後の不安」という根源的な不安は、以後縁が無くなるのではないか、とは思う。