茂木考3

基礎的な事になるが、電子顕微鏡を始めとした高倍率顕微鏡における性能の定義は、近接した2つの点を、どれだけ極小の世界においてまでそれが合わさった1つの点ではなく距離のある2点であるということを識別できるか、ということであるという。つまり、性能が低い顕微鏡で近接した2点を観察すると1つの点に見えてしまうのであるが、高倍率の顕微鏡でそれを見れば、それらは確かに離れているのであって、それら2点の峻別を何処まで極小化できるかの勝負なのだと。

茂木健一郎の読書においては、『生きて死ぬ私』を楽しく読了し、今は『「脳」整理法』をじっくり読み進めている所ではあるが、今回の茂木考のテキストは気分を変えて、彼のブログの本日のエントリーとしてみよう。「あなたのクオリアに対する関心は、Zenと関係しているんじゃないか」という彼が外国人から受けた質問とその回答が、とても興味深いからだ。

彼は質問に対する答えのなかでこう言う。

  複数の人に、クオリアは「唯識」に
  関係しているのではないかと言われたことも
  あるが、華厳経をきちんと勉強したことも
  ない。

実は俺様も、『生きて死ぬ私』の「まえがき」に書かれてある「クオリア」の定義を読んだとき、直ぐに唯識を思った。約2000年前に体系化された唯識の中核である阿頼耶識の考え方にかなり似ているなと。俺様も唯識の専門家ではなくたしなみの一部として知っているだけだし、一宗派としてよりも仏教全般の基礎学的な位置づけを持つこのコアな科学的領域に明るくない多数の人のことも考えて、Wikipediaの「唯識」の項を引用して対比する。

彼は当該「まえがき」で要約するとこのように書いている。クオリアとは脳内に於ける独特の質感のことであって、豊かな人生を送っている人はクオリアも豊かなのである、と。一方、Wikipediaにはこのようにある。『「唯識」といって、唯八識のみであるというのは、一切の存在現象がこの八識を離れないということである。八識のほかに存在がないということではない。』と。唯識を少しかじったことのある人なら知っているが、これら八つの識の土台は第八識である阿頼耶識(あらやしき)であり、この阿頼耶識の別名が「蔵識(ぞうしき)」と言われることからも分かるように、「私」の無意識下における記憶のタンクが一切の認識や感情の根元である(それに依拠している)、というのが唯識論の発見事項の1つである。これは茂木健が脳科学に一気にのめり込んでいく事になった若かりし日の発見体験、『宇宙も含めた物理的世界の一切は広々と外部に広がっていながらその全てが頭蓋骨のなかで個々人なりに認識されているのであって「私」の世界の全ては実は脳内に収束されているのだ』とも、ど真ん中でシンクロしているのだ。

続いて彼はこう言う。

  あなたが先ほど指摘したように、私は
  青春時代はカントやニーチェベルクソン
  など、ヨーロッパの思想家を中心に読んでいた。

どうやら彼は、自分の世界観は「禅」や「唯識」などの東洋哲学の影響を受けておらずむしろヨーロッパ哲学の影響を受けていると主張したいようだが、ここにニーチェが入ってしまっては説得力に欠ける。よく知られているようにニーチェショーペンハウエルの影響を強く受けており、ショーペンハウエルは古代インドのウパニシャッド哲学を源泉の1つとしているからだ。もちろんウパニシャッド哲学と仏教は同一ではないものの近しい部分が少なからずあり 、その辺りの東洋的流れが、ニーチェに於いて「永劫回帰」として花開いたと俺様は理解している。

そして彼は質問に対する答えを以下のように結んだ後

  しかし、日本という国に生まれ、この社会で
  育ってきたわけだから、自分が気付かないうちに、
  無意識のうちに伝統や文化からさまざまな
  影響を受けていて、その中にはあなたの
  言う「禅」も入っているかもしれない。

  だから、そのような無意識の影響を
  意識化していくことが、きっと
  大切なのでしょう。

次のようにエントリーを総括している。

  日本近代の知識人が、
  「あなたの言っていることは禅と関係してい
  のか?」
  と西洋人に聞かれた時のある種の居心地の
  悪さをどのように着地させるか?
 
  この問題は、私が最近考えているいくつかの
  ことと関連している。

  居心地の悪いこと、とまどうこと、
  どうしたら良いかわからないこと。
  そのようなやっかいな領域の中にこそ、
  考え抜くべき真の課題があると思う。

西洋人から頻繁に聞かれるこういう質問は居心地が悪いと。

しかし、当たり前の事であるが、この種の質問における居心地の悪さの源泉は質問の内部にあるのではない。質問はなんら当てこすりなものではなく、外部的視点をもった者にとってみれば純粋且つ自然な流れからの疑問だからだ。居心地の悪さの源泉は、禅的なものと自分の世界観とを明確に峻別できていないという自己の「後ろめたさ」をその起源とする。

最初に書いたように、距離が近くても、あるいは一部分重なっていたとしても、それが同一のものではなく異なる2点である事を明確に峻別する事。そしてそれをあらゆる分野に於いても徹底していくのだと言う姿勢。それが「混乱」という宿命的性質を背中に貼り付けられたわれわれ人間が、現状を突破し、まだ見ぬ明日を夢見る最低条件だ。

細分化せよ、細分化せよ、と何処からか聞こえる。君にはこの声が聞こえないか?粉砕せよ、粉砕せよ、自意識の欠片をことごとく。自意識は自然観察を歪曲させる内的悪魔である。

「オリジナルでなければ意味がない。例えそれが素晴らしい発見でも、既に誰かが先に其処にいればそれはゴミだ」とMITの石井教授は言った。本質的意味に於いてオリジナルなどというものが存在するかという議論はさておいて、あなたがオリジナルだと目指す場所が既に開拓された他人の土地であるかも知れないという危機的リスクが提示されているのに、「いや、そこから影響を受けたわけじゃないから」などという「ぬるい態度」は何事か。人生を掛けた中心命題に命をかけて取り組んでいるはずなのに、複数の人に相似性を指摘されながらろくすっぽ唯識を勉強せずに居心地の悪さを感じ続けているとは如何なることか。と、その分析力の切れ味と人間性の素晴らしさに強く好感を持っているからこそ彼に一言言いたくて、このエントリーを書いた。

つまるところ茂木健一郎には、西洋とか東洋とか、脳科学とか哲学とか宗教的思想とかもちろん量子物理学とか、それらを取捨選択するのではなく、一切を飲み込む挑戦者であって欲しいのだ。彼の求める究極的とも思える真理の扉がもし開くとしたら、全てを否定することなく飲み込み力強く肯定する「一切真」の境涯から以外は有り得ないと思うからだ。