茂木考2

『生きて死ぬ私』(文庫)を130ページまで読み終えた。基本的にいちいち考えながら読み進めていくので超遅読の俺様であるが、非常に楽しく読書している。明日出発するヘロン島にも機内と夜のお供に何冊か茂木健を持参するつもり。彼の滋味溢れた文体は、きっと青い海にも合うだろう。

ちょうど半分まで読んだわけだが、エントリーを書きたくなる興味の断片は5つはあった。その中でどれを材料にして「茂木考」しようかと思ったのだが、今回は彼が75〜80ページあたりで取り上げている「悟り」について書く事にする。茂木健が以下の二者を混同しているからでもある。

仏教でいう「悟り」には、世間的認知に於いては基本的にふたつある。ひとつには、厳密な意味においての悟り。いわゆるニルヴァーナ(完全なる悟り)というやつで、「仏そのもの」になったときのみに得られる完全知がともなう。仏教の究極の目的であり、少なくとも肉体を持った人間時に於いては到達できない。ふたつ目は、釈迦が菩提樹の下で一週間の瞑想(世界観察と言った方がいいか)のあとに得た悟りで、人間として生きている最中に得られるもの。ニルヴァーナとはまるで次元が違うが、自分がゆくゆくは(人間を終えたときには)それを得られるんだろうな、という予感を得ると言う意味で、仏道のスタート地点に初めて立つ瞬間でもある。

後者については、基本的にそこまで難しくはない。釈迦のみならず人間の歴史上において一万人以上はその地点に達してきたはずだ。なによりプロフィールにあるように、この俺様自身其処に達している。これはもちろん、茂木健が88ページ以降の第3章で述べているオルタード・ステイツ(意識の変性状態)とも違う。そういう一時的なものではなくて、分かりやすく言えば、脳内に於けるオペレーティング・システムの入れ替えである。

人間は、ある種の事を「accept」すると後者的悟りに達する。原付事故後のビートたけしなどが当にそれで、この「accept」がキーワードだ。人はそれ以降大幅な世界観の変容を迫られるが、別に夢遊病に陥っているわけではない。昨日の自分がまだ果たせなかった1面をクリアーし2面に進んだだけだ。人間にとって必要なネオフィリア(新奇なものを好む)を失ったわけでもない。むしろ透明感を増した景色に、その炎はより燃えさかる。ただし、世界を満喫する事は忘れない。それはあまりにも美しく、心奪われるからだ。茂木健はニーチェが好きなようで、俺様もそれに同意する。カラマーゾフの下巻にイワンの夢遊病時に出現するその悪魔は、いまこの瞬間を炎のように愛すからだ。だから俺様は未だ1面の中にあり、1面以外の存在を知らぬ人々にニーチェのように呼びかける。人生は素晴らしい、あなた達がその欺瞞に満ちたヒューマニズムの中でさえ命の大切さを唱えるなら、「難しい」などと言い訳がましくいじけていないで、さっさと次の面にいこうぜ、と。