F1日本グランプリ2006(鈴鹿ラストイヤー)

kemurin012006-10-09


というわけで、決勝当日の日曜日は朝5時に起床し鈴鹿に行った。

土曜日の予選はというと、「前日のフライトが遅延して帰宅が夜11時を過ぎたから」とか適当な理由を自分に言い聞かせて家のテレビで見た。もちろん、単純に疲れていただけで、簡単に心が挫けやすい状況だったに過ぎない。しかしテレビを見て俺達二人はその入場者数に驚いた。実は俺達は日本グランプリに行くのは今回が初めてで、今まではイタリアGPとフランスGPに行っただけなのだけれど、唯一予選から行ったモンツァでの経験が俺達の基礎的概念の全てだったからだ。熱狂的、といわれるモンツァでも本戦はもちろん凄いことになっているのだが、予選から来ているのはせいぜい3割。他人の価値観ではなく自分の価値観でしか行動しないラテン系としてはまぁそんなもの。ところがテレビで見たところ、土曜日の鈴鹿のスタンドは9割程度埋まっている。「ヨーロッパ圏の人間より日本人の方がF1好き」ということはその「理解の深さ」からいってもあり得ないので、これ、すなわち日本人の特徴というか「独特の習性」には、改めて驚きを禁じ得なかった。最近、日本文化の素晴らしさが俺様のなかで確信的なものになっていて、心から日本人として生まれたことに喜びを感じているのだけれど、こういう部分が象徴する領域には未だ「後ずさり」してしまう。

F1そのものはやはり素晴らしかった。生でのF1観戦の醍醐味の90%はその音にこそあるのだけれど、エンジンが2400CCになった今年であってもそれは変わっていなかった。今回の観戦はグランドスタンドからだったのだけれど、直線を全開でぶっ飛ばしていくそのらせん構造の音の衝撃波は、ソニックブームとなって人間のモラルをも破壊するように思える。当たり前のことだけれども、抑止力の崩壊は強烈な快感に直結している。だから、F1マシーンの音に対する快感は、「理解」という二次的なものではなく反射的なものであり、理性的なものでは決してない。俺達は何時もこれを聞きに行く。何時もこれに体を痺れさせに行く。暴力的なその蹂躙に充分満足して、俺達はサーキットをあとにした。

もちろん、シューマッハの最後の走りだとか、日本人が大好きなそういうドラマ的な要素も充分楽しんだ。だけど俺達はF1というものがドラマなどという感情的なものじゃないということを知っている。もっと肉体的、もっとケミカルなものだ。そういうケミカルな快楽をさらに求めて、俺達はF1サーカスと共に世界を回る「F1グランドスラム」を何れ断行しようと思いついた。そのためにはワイフが仕事を辞めなければならないから、10年程度はあとになると思うけど、何れ絶対にやる。ラテンの国で醸成されたこんな果実には、そんな馬鹿な楽しみ方が一番合っていると思うんだけどね。