14th/Sep/2006 Paris-day4

kemurin012006-09-15


今日は、ロダン美術館とオルセー美術館に行った。基本的に一日に美術館をいくつも巡ることには「集中力がそんなに続くわけないだろ、見る目がないのかお前らは」と批判的ですらある俺様ではあるが、ロダン美術館とオルセーの組み合わせならそれも可能だと思う。なぜなら、ロダン美術館は通常の多くの美術館と違い、ロダンが実際に住んでいた広大な邸宅の、広々とした庭の木漏れ日の中に数々の彫刻が配されているという素晴らしい場所であるからで、美術館に行くと言うよりも緑の庭園を散歩するという感覚により近いからだ。よってエネルギーに満ちた多くの傑作を美術館の閉鎖的な建物の中で連続的に見たときのような、あとに残る疲労感が全くない。もちろん邸宅の中には沢山の作品が集中的に展示されているので其処だけを訪れれば通常の美術館とさほど変わらなくなってしまうが、外側の庭園こそがこの美術館の神髄なのだ。

ここを訪れると何時も思うのだけれど、ロダンという男は本当に凄いと思う。自分の作品のコンディションを優先すれば、あのように野ざらしにすることは出来ないと思うのだけれど、其処を敢えて「一切は人間を支える自然があればこそなのだ」ということを主張するために、あるいは多くの鑑賞者には自然の気持ちよさを感じてもらいたいがために、自分の作品を雨露にさらしているのだ。

こういう彼の哲学は、今日の写真にアップした「考える人」の展示方法に更に明確に表現されている。このブログを読む人には是非一度実際にこの美術館を訪れ、この「考える人」を見て欲しいのだけれど、この彫像は高さ2メートル以上の台座の上、つまりかなり高い位置に配置され、しかもかなり近付いて見なければならないように、彫像の2メートル外周を3メートル以上の樹木が彫像を遠方から隠すかのように取り囲んでいる。このため、鑑賞者は必然的に彫像を下から見上げる形に強制されるのであるが、この「装置」こそがロダンの主張なのだ。考える人、つまり我々一人一人の象徴である彼は、考える、悩む、苦悩する、思索する。このとき我々は往々にして知らず知らずのうちにうつむき加減になって、自己循環的に自分の世界に閉じこもってしまうのであるが、本人は気づかずとも、彼の頭上には広々とした青い空が伸び伸びと広がり、彼を優しく包んでいるのだ。我々は何時も悩む。どうしても考えてしまう。しかしそれは大いなる自然が我々に許してくれている、小さな過ちでしかないのだと、ロダンは青き大空をキャンバスにして見事に描ききっているのだ。なんと素晴らしき作品であり、導きであろうか。

パリにはこんなに凄い場所がある。だから俺様はこの街が好きだ。