終戦記念日に於ける小泉総理の靖国参拝について

当然参拝すると思っていたけど、改めて「よくやった」という感じ。

メディアとそれに踊らされている大衆を中心に、彼らの言う「アジア」(←文句を言っているのは中国と韓国だけなのになぜか「アジア」)への配慮に欠けている、という呆れた意見が多数あるが、こういう情報に接する度に、この人達は外国人とのまともなコミュニケーションを一度もした事のない「本当の田舎者」なんだなと思う。

当たり前の事だけど、基本的な部分に於いてコンセンサスを共有しない外部の人たちとのコミュニケーションは、先ず自分がどういう人間なのか、ということをアピールする事から始まる。自分が何によって収入を得ており、何に関心を持ち、何を大切にするのか。今回の彼の靖国参拝のような事案は、個人に於ける最も本質的な領域であり、いわば我々の個人レベルの「外交」とは、この領域を護ることが目的の第1条だ。「外交」のレーゾンデートルは、先ず此処にある。

だから自分が本来最も大切にしたい部分を直ぐに譲ってしまうのは「外交」における本末転倒なのであるが、そればかりではなく、そういう愚かな人間はそれを譲った結果としてどういう対応をされるかというと、争いを未然に回避したと尊敬されることは決して無く、軽視、あるいは軽蔑である。だってそうだろ、争いを回避するためにやすやすと自分の娘の身体を相手に差し出す奴が、どうやってまともな扱いをされるというんだ。愚かな事だ。

俺はニューヨークに住んでいるときに、自分と言う人間を構成するものについては徹底的に隠さなかった。一年の内の半分は海外旅行をしながら過ごしているし、ファッションが好きだし、現時点に於いては金が潤沢にあるし、キャビアを食ったりシャトーディケムを飲むのが大好きだと、もちろん殊更に自慢はしなかったが普通にアピールしていた。そこから始めてくれ、と。それらの1つでも欠けたならば、俺ではないんだと。誠実且つ切実に俺は訴えた。

すると、そこから始まったんだ。人間同士のコミュニケーションが。もちろん多くの人間に「命はお互いたった1つしかないし、24時間という絶対的に同じ条件下で生きているお前を、俺は自分にそうするように尊重する」と伝えたし、例え言わなかったとしてもそのように相対したけど、国際社会に於いて大切なのは何よりも、「自分の大切なものはお前を殺してでも俺は護る」という切実さなんだよ。物騒に聞こえるかも知れないけど、そこからしか本質的なコミュニケーションは構築されない、ということを俺は知っているし、知るべきだ。

ま、日本の社会的コンセンサスを世界も共有している、という脳死状態の田舎者には何を言ってもムダだと思うけどね。