★西武鉄道の前社長小柳皓正氏が自殺したわけだが★

これでコクド関連の自殺は二人目か。これら二件ともが本当に自殺なのか、あるいは自殺に見せかけられたアレなのかは別として、ちょっと自殺について語ってみる。

自殺はいつも外部への窓が閉じられた閉鎖的空間でのみ起こる。外部の視点というフレッシュエアーが入る所で、自分の価値観を揺るがす外側の価値観が銀河ほども存在することを知りながら、その後に「さてそれでは」と自殺する構図は見たことがない。問題は何時も孤立化であり、閉鎖化、そしてその終着点である思考の自己循環なのである。

思考の自己循環、人間が危険化するときには何時もこの構造が現れる。個人レベルでは自殺、他殺を含めた自他への物理的・精神的攻撃。また外部への窓が閉じられればその規模を問わず、人間は集団的に自己循環を始め、集団の中で自己の一部を攻撃し、集団でもって他者を攻撃する。日本でもあらゆるフェイズで頻繁に行われる社会的イジメがそうだし、国家単位でこの構造が現れたのが現代の北朝鮮であり大戦中の日本帝国であり911直後のアメリカでありイスラエルだ。

閉じられた諫早湾の水が徐々に腐っていくのは必然だ。閉じられた窓は開けられなければならない。もちろん人間は基本的に怠惰であるから、内側に閉じこもりたい気持ちは理解できる。それが集団化している場合は、集団が個人が宿命的に抱える孤独を癒してくれるような錯覚を伴うからなおさら甘美に映り、外側の窓を閉じるどころか塗り込めたくなるのだ。しかし言うまでもなく、それらは幻想であり、暗幕が空けられれば瞬時に不確かになる脆き輪郭だ。暗幕で遮られた講堂で集団で見る映画に他ならないのだ。

また、孤立化は、孤立している時間が長ければ長いほど取り返しが付かないものになると錯覚される。時々人は外側の世界があることに薄々気付いたりするのだが、その取り返しの付かなさから本来は救済そのものであるはずの木洩れ日の進入を塞ごうと暗幕のほころびの修復に必死になる。その姿は、まるで穴の開いたボートから水を掻き出すかのようだ。もちろん彼らは愚かだ。なぜなら若さとは相対であり、生きている限り人は、残された時間を永遠的概念に変えて短からず楽しむことができる。生とは、言うまでもなく、チャンスなのだ。

このBLOGに訪れてくれるすべての若者たちに私が伝えることができるのは、物凄く単純だ。どんな価値観にも外側が存在し、そして命ある限り、全ての人は窓の外にでるチャンスを有する。本人が思っている以上にその脱出はあっけないものだ。過去がそうであったように、人間は未来の全てをどのようにも選択できる。会社を辞めること、日本を離れること、それらは意外なほどにあっけなく、その瞬間に200%悪夢は醒める。そしてそれらは、少なくとも日本人である限り、誰にでも選択可能だ。

小柳皓正氏は首つりのロープにネクタイを使ったという。最期の最期までネクタイを外せなかった彼の辿った悲しき運命に、われわれは学ぶべきだと私は思う。それによって彼を私の中で生かしてやろうと私は思う。