★エレガントな憂鬱★

なんといか、最近全く筆が進まない。書くことがないわけではない。毎日、それなりに色々なことをしているし、美しい物にも触れている。新たな情報が蓄積されることのない刺激のない生活を送っているとは思わない。ただ書くモチベーションが充満しないのだ。
 
それが何故なのかはっきりとは分からない。毎日の生活に実感として欠落がないからなのかも知れない。最近の俺様を包み込んでいるムードは、コートダジュールの「ル・キャップ・エステル」辺りで海を見ながらのんびり過ごしている感覚に相似している。安らぎに満ち安定しているからこそ変化を求めない、そういう感じだ。株のトレードの方も、精神の安定を優先させてギャンブル度を極端に低下させているから、先週月曜日以降の大きなゲインはないが、日々の貴族的生活を保証する以上の金額は充分に得られている。俺はこうして幕間つなぎをしながら、次に絶対的チャンスが訪れるまでひたすら息を潜めて全力を投じるべきタイミングを待つのだ。
 
経済的不安がなく、最小単位ではあるが家族の愛も充分すぎるほど得られていて、何処までも美しき世界観を獲得しているから「フィクションとしての神」などに頼らなくても死や存在などに対する根元的悩みもない。名誉や美醜や影響力の行使に対する欲求はあれども、それを主観的に求める自分を客観的に見下ろす自分を半身として持っているからそれがオーバードライブすることもない(退屈さから意識してオーバードライブさせることは時々あるけれども)。そういうエレガントな憂鬱のなかで人は傷を覚悟してまでコミュニケーションを求めようとするのだろうか。よく分からないし、非常なる気分屋の私としては明日になればいつものようにがらりと行動が変わってしまうような気もするのだけれど、そういうわけでBLOGの更新もなんだかゆったりとならざるを得ないのだ。
 
今日はニューヨークフィルのコンサートに行ってきた。ラフマニノフのピアノコンチェルト1番と、ラベルのDaphnis et Chloé (complete)であったが、悪くない音だったと思う。ロリン・マゼールの刻みはさほどドラマチックな物ではなかったが、それがゆえ普遍的な感じがした。ああいう音は嫌いではない。ただクリストフ・エッシェンバッハが指揮するパリ管のように一音一音立ち止まって深く掘り下げているかのような厚みは感じなかったし、ミュンヘンで聴いたズビンメータのように何年経っても新鮮な驚きが回顧されるものでもないだろう。あくまでニューヨークらしい音であったと言えばそれまでだけど。しかしその洗練された音は、今の俺の状態を良く象徴しているような気がした。そろそろアフリカのサファリに行くべき時が近づいていると言うことかも知れないし、正直、パリが恋しくなってきた。アメリカという国そのものを代表するニューヨークは何処までも便利だし、金を稼ぎそれをもとに消費を楽しむには最も適した環境だから一年のうち一定期間は滞在しようと思うけれど、長期間ここに居続けるにはあまりに退屈だ。