★その戦場での圧倒的有利性★

恥ずかしいとか一応口先では言っていても所詮こんなことは俺様にとってのプライベートな問題であって他人には本質的に関係のない話なので何度でも憚らずに言うが、俺様は一週間に五回マンハッタンの英会話スクールに通っている。目的はふたつ。一つ目は単純に英語を日本語のようには話せないから。二つ目は他者とのコミュニケーションが楽しく楽しくて仕方がないからだ。
 
これはずいぶん前にもコメント欄で少し書いたことだが、俺様はそこでも毎日俺様的ファッションを通している。クラスメイト達はニューヨークに住みながらも英語を学ぶ必要がある人たちだから、基本的にごく一部の例外を除いて金銭的余裕は限りなく少ない。おおよそ半数近くが仕事をもっているが(しなければならない人たちだが)、英語もできないのに高収入な仕事に就ける道理がない。学校はマンハッタンのど真ん中にあるが、学校経営の寮に入っている人を除き、マンハッタンに住めている生徒は5%いるかいないかだろう。ほとんどがメトロで30分以上かかるクイーンズかブルックリンかニュージャージーに住んで毎日そこから通っている。
 
そういう状況下でアルマーニを中心とした格好の俺は否が応でも目立つ。というか、例えファーストクラスに乗るときでさえ俺の格好は際だっているのだからなおさらだ。普通の人間ならばこういう服を着ていくのをきっと避けるのだろうが、隠蔽がもたらす刹那的な利益よりもそれがもたらす長期的な不利益を看過しない俺様は、普段着のままを通すことを選択しているのだ。つまり俺様が株式投資によって利益を生み続ける投資家であることは現時点に置いては事実であり、その大きな属性を隠蔽したところから始まるコミュニケーションに如何ほどの意味があるだろうか、ということだ。
 
にわかには信じてもらえないかも知れないが、俺様は全ての人をリスペクトしている。精確には、全ての人間存在をリスペクトしている、と言った方がよりいいのかも知れない。これは誰かに証明する必要のないプライベートな価値観であるが、これはもちろん俺様の華厳的世界観に裏打ちされている。好きとか嫌いと言った表層的かつ生理的な嗜好は確かに人並みにあるが、深層においては「そんなことを言っても否が応でも人間は本質的に平等でありリスペクトせざるを得ない存在なのだから仕方がないだろう。事象を点で見るのではなく流れを見やがれ、この野郎! 目を細めざるを得ないだろうが、この野郎」という動かし難き状況なのだ。
 
俺は、半ば趣味といっても良いが、ここ数年来人間を見続けてきた。人間とはいかなる物かを観察してきた。自分という窓を通して彼らを観察し、彼らという窓から自分を覗き込んできた。そしてそれなりに整理が進みつつある。であるから、人間の持つ宿命的な諸問題、つまり悲しみや孤独や争いや欺瞞や喜びなどの人間の混乱に関わる諸問題の表層的発露に対しては、比較的既知のものとして冷静な対応が可能だ。だから今回も自分を隠蔽せずにコミュニケーションに臨めた、というのもある。
 
もちろん、人間のルサンチマン(ネガティブな思考)はほぼ底なしだから、大胆な境界越えを試みつつも充分な慎重さと時には諦めも必要だ。しかしながら、これはもう奇跡といっても良いくらいなのだが、俺は彼らのほとんどと、俺が当初望んでいた以上の良好な関係を築けている。教師を含めた延べ20カ国以上の人間と延べ50人以上の人たちと。
 
コミュニケーションのありようが変容する瞬間というのは何時もエキサイティングだ。そのひとりひとりに応じた配慮を保ちながら時には攻めに転じる。ある入力に対して出力がどう返されるのかを見据え、最適な次の戦略を瞬間的に探す。もちろん俺様はこの戦場に置いて常に有利だ。俺のような失策の多い武将でも、ぬぐい去ることのできない相手へのリスペクトが俺の目の光彩に貼り付いているからだ。そしてあるとき、昨日まで確かにあった相手の分厚い壁が少しだけ溶ける瞬間が訪れる。これが快感なんだ。一度知ったら簡単に止められるわけがない。きっとケミカルで強い反応がそこに仕掛けられているのだと俺は思う。
 
そして俺は明日も快感を求めに英会話学校に出掛けていく。この快感を得るためという条件で考えた場合、「お互い努力せねばコミュニケーションが成立しない」ということが大前提になっている海外の英会話学校以上にこれに適した場所を、俺は知らない。