★「茶室が何故小さくなければならないか」についての私的見解を語っておく

といっても、私は何処かの先生に付いて本格的に茶道を習っていたわけではない。ただ学生時代に遊び半分で二年ほど茶道クラブに顔を出していたことがあり、そこに週に一度来る先生に一通りの茶の飲み方と夏冬一種類ずつのお手前を習っただけに過ぎない。それも十年以上前のことだから、お手前の手順などほとんど忘れてしまった。
 
それでも今でも茶をしばしば飲むのは、時々自分で点てて飲みたくなることがあるというのと、日本の実家の庭に五、六年ほど前に建てた若き茶室があって、私が日本に帰ったときには両親とワイフと共にそこで4人でゆっくり茶を楽しむのがここ数年の習慣になっているからだ。
 
その程度であるにもかかわらず、表題について語ろうというのだから、俺様というのは何処までも尊大だと思う。しかも誰かが言っていたことを参考にして書くのではなく、数週間前にふと思ったことを勝手に書くのであるから、茶の湯の専門家からすると、ちゃんちゃら可笑しい浅薄な素人の戯れ言に聞こえるのではあろうが、まぁ俺様は俺様なりに俺様の世界観を軽々と凌駕する奴などこの世界にはほとんどいないという「尊大な」自信があるので、こうして茶の湯の奥義に関わるであろうことを白々と語らんとするのだ。
 
茶室は小さければ小さいほど良い、と利休は言った。彼の作った究極の茶室は僅か二畳であったという。歴史的事実はどうであれ、なかなか深い問いかけだ。で、私なりのこたえだが、それは茶の空間それ自体が宇宙全体を見通すためのアイコンであるからだ。アイコンで分かりにくければ、「窓」と言い直しても良い。人間の能力というのは宇宙全体の様相に思いを馳せるにはあまりにも限られている。仮に半径1キロの巨大な窓がそこにあったとして、人間はその向こう側のあまねく景色をそこを通して見るだろうか。否。人間の能力ではおそらく、景色を見るも何も、そこに窓があることにすら気付かないだろう。それに対して、仮に壁に直径2センチほどの円形の穴が開いていたらどうだろう。それに気付いたある人は、そこから向こう側の景色がどうなっているのか覗こうとするはずだ。その小さな穴の向こうに見えるのが、銀河だ。宇宙全体の運行状況そのものだ。それに人は胸を打たれる。そして暫くの宇宙遊泳のあと現実に翻って「初めての茶」を飲む。そこで誰もが口を揃えて言うのが「一期一会であった」という言葉だ。極小の空間と極大の空間が同義となるところ、そこが茶の湯の世界の到達点だ。もちろんこの視点からは、さまざまな対立的概念が同義となる。新と古、陰と陽、そして、瞬間と永遠。そう考えると、利休という禿げたおっさんも、なかなか愛嬌のある味わい深き男よ。