★『Tod Und Verklarung(死と変容)』リヒャルト・シュトラウス★

なんというか、ワイフが1/9にニューヨークを発ってから昨日までの三日間、少しぐったりしていた。物事の受け止め方もややネガティブに傾斜していたと思う。人からは、「なんとなくぼんやりしているね。奥様が帰ってしまったから?」と言われたりしたが、もちろん寂しかった訳じゃない。寂しさを感じると言うことはそれ以外にやることがないからで、新しく何かをやり続けることによってそこから自由になることが可能だからだ。寂しさだけではなく過去に対するこだわりや傷というものは、新しい何かを求めそれにより自分を更新していくことで解決可能だし、基本的にはそれしか解決方法がないのだと思う。
 
ではどうしてこの数日わたしはぐったりしていたのだろう。さっきリンカーンセンターでバレエを見ているときに不意に気付いたのだが、多分わたしは燃焼し尽くしていたのだ。
 
大げさに聞こえるだろうが、ワイフが来ていた16日間が終わった後になら死んでも構わないと覚悟を決めてわたしは生きた。もちろんゆったりする時間も充分取っていたし、それが終われば経済力が枯渇してしまうわけでもなかったので、悲壮感など全くなかった。ただ不思議なテンションだけがそこに横たわっていて、休むときもそのテンションを緩めることなく突っ走った。だから「ああ、もう終わったんだな」と思ったときに、死を迎えるようにぐったり来てしまったのだと思う。
 
そこから立ち直るために3日もかかった。いや3日しかかからなかった。どちらかは分からないが、どうやら小さなトンネルをくぐってまた生き返ったみたいだから、もう一度生きてみようと思う。わたしは、キリスト教的来世を信じられるほど楽観的ではないから、こういうリインカネーションのスタイルが好きだ。人生は、短いなどと嘆くには当たらず、充分長い、とわたしは思う。