★夢だけは見続けてやるぞ、この野郎!!


ひとつ前のエントリーに関連して、finalventさんのもうひとつのBLOG「極東ブログ」の1/12付けエントリー「未婚男性急増といったことから」から一部引用する。
 
 そして、たぶん、人は自分の死をリアルに観念するまで社会的なありかたと自分の人生とは違うものだ、という精神的な自立というのはない。
 なにも自立せよというような偉そうな話ではない。精神的な孤立などたいていの人はできない。(後略)
 
いや、俺ももうずいぶん前から分かってるんですよ。結局そこだと言うことが。自分の死を受け入れた人が須く見性するとはもちろん言わないが、少なくともその人は、「呑気な社会」の価値観から離脱していく。離脱と言っても俺様のように物理的移動を伴うものとは限らない。そしてそれは能動的に、というような格好の良いものではなくて、不可避的に、というより、逃避的なニュアンスを含んでそれは行われる。それは生物の進化の過程と相似的だ。
 
俺は自己評価が低すぎるのかロマンチストに過ぎるのか分からないが、自分にできたことは(自分に起こったことは)他人にもできうる(他人にも起こりうる)と期待しすぎてしまうという悪い癖がある。おそらくfinalventさんや多くの先達が言うように、「精神的な孤立などたいていの人はできない」のだろう。彼の諦めの根元もそこにある。
 
正直言って全体というものの見方をした場合、俺様もその辺りは諦めきっている。だからせめて一人ずつでも、という現実的なスタンスを選択したのだ。
 
しかし人間的歴史観ではなく生物学的歴史観をそこに導入するなら、外圧を伴うことによって纏まった単位での突然変異というのは起こりうるはずだと思う。ここで言う外圧というのは、例えばコンピュータウイルス的なもののペスト的感染、みたいなことが最もイメージしやすい。
 
大半の人が見性している社会、などという夢物語は所詮その程度の実現可能性だ。しかし個人的レベルであれ社会的レベルであれ、どちらにせよ人間の変化というのが受動的である限り、こういう子供のような夢は夜寝るときの枕元に子守歌代わりに置いておきたいものだ。それが、その劇的瞬間が来るまでこつこつとやるための小さな心の支えくらいにはなるからだ。