★★全ての人間は相反し矛盾する複数の認識を同時に抱え、その自己断裂と戦いながらひとつひとつの選択を否応なく行使しているんだろうが、馬鹿野郎★★

一個前のエントリーに対して切込隊長から返答があったのを彼のBLOGのコメント欄の97番に見つけたから、こちらも簡単に返答しておこうか。下にパラグラフごとに数字を振りながら全文を引用する。

 めんどいので、けむりんから貰ったTBについても返答。
 
> どうして切込隊長は「日本人」や「日本社会」や「日本のポジション」などという枠組みでものを書くのか。
 
 そりゃ私は「いろんな国で税金を払っている日本人だから」ですよ。比較文化論じゃないが、国民に課せられる税金や国民が持つ権利ってのはその国の形のようなもんです。〓
 
 大きいお金を商品相場で運用すると事情は理解できるでしょうし、あんたのいう前時代的ってものを軽視するようなら相場でたいした成功もできないでしょうな。〓
 
 誰かも書いてましたが「人は移り変わる、されど人は本質から逃れられず」ですよ。時代が変わったと思っても、人間ってものの営みは昔から大して進化してない。そんな簡単なことも理解できないならブログ閉じて自宅で妄想でもしててくださいな。〓
 
★★★★★★
 
〓について・・・なんというか、こういう返答を見ると、意識的なのか無意識的なのかは分からないけど、自分に対する批判についてはポイントをずらしてやり過ごそうという気配が彼にはわりと強く感じられる。これは今回に始まったことではないからこうして書いているのだが、そこに逃避や悪意がないとするならば(無いとは結論づけていない)、読解力が想定以上に低いということはまさか無いだろうから、けむりん程度の書き込みなど適当に読んでおいてやれ、ということなのかな、と思うと「ふーん」という感じがする。
 
今回の問いかけに対しても、カギ括弧の前半部分「いろんな国で税金を払っている〜」にウエイトを置いて読むと、「物書きとしての自分の特異性はそこにあるから」という答えになるだろうし、後半部分にウエイトを置いて読むと「日本人だから」というそのままの答えになる。
 
しかしながら、前回の俺様の問いかけは、切込隊長の権利や特異性や一般的属性などについて問うたわけではない。それらはあくまで、ものを書く前の書き手の前提条件であって、なぜ「日本人」や「わが国」や「日本民族」や「日本社会」などという広域な範囲でものを語りたがるのか、という質問にはまるで答えていない。俺様は、こういう範囲のくくり方では、彼の情報発信の対象先が誰なのかとても分かりにくい、ということを言っているのだ。あんたは一体誰に影響を与えたいのだ。
 
当たり前のことだけど、伝達の対象が変われば表現の形態や言葉遣いも変えなければならない。使うべきメタファーも伝達の対象に規定される。彼は前回のエントリーで、せっかく「日本社会の多階層化(多階級化)は既に後半部分に突入しつつある(注:これは俺様の認識)」ということを段階認識の違いはあれど指摘しているというのに、伝達の手法と対象はあいかわらず「高度成長時代」あるいは「一億総中流時代」のままでいる。そこに違和感を感じるのだ。
 
だから、「せっかく貴重な時間を使って精力的に弾を撃っているのに、小津安二郎の映画に向けて撃っているようでは、当たるものも当たらんよ。その辺どう考えてるのさ」というのが前回の俺様の指摘であったのだ。
 
〓について・・・大きいお金を商品相場云々、という前半部分においては、「日本とそれに関わる国や地域の関係性について私は人よりよく見えているから」という主張なのかなと思うけど、俺様は商品相場に大きいお金を投入したことがないので意味が読み取れているのかはよく分からない。しかし、これにしたって、情報の採掘現場とその加工製品の出荷先をごっちゃにして勝手にコンフューズしているだけで、問いに対する主張にすらなっていない。
 
あと、「あんたのいう前時代的ってものを軽視するようなら相場でたいした成功もできないでしょうな。」ということについては本論とは全く関係ない大きなお世話の話だが、そもそも軽視してないし、あんたの言ってることは百も承知。市場プレイヤーの投資行動を各主体レベルではなく全体レベルとして読むときに、何時もしくじるのがこの「プレイヤーの不成長性」。何時も他のプレイヤーを過大評価してしまう。その評価のずれの習性を「時間」でもって合わせているのかどうかあんたのやり方は分からないが、俺なりに何時もこれと格闘しているのも事実。
 
〓について(あえてもう一度引用)
 誰かも書いてましたが「人は移り変わる、されど人は本質から逃れられず」ですよ。時代が変わったと思っても、人間ってものの営みは昔から大して進化してない。そんな簡単なことも理解できないならブログ閉じて自宅で妄想でもしててくださいな。
 
何言ってんの。そんなことは物書きとしての大前提条件でしょ。切込隊長は何年か前に運営していたウェブサイト「死体置き場」のなかの1ページ「政治思想の学問体系」において、「例えば、未だに日本にはニーチェを研究している院生や助教授クラスが一個中隊規模で存在しているが、恐らくこの手の人たちは海外の政治研究家とはまともに話ができないであろう。しかし、日本の学会においては大御所として威張っていたり、ゼミ生を50人近く抱えていたりしている。ハタから見れば際立ったバカ、もしくはバカの集団であるわけだが、(後略)」などと日本で今でも続いているニーチェ研究を切り捨てて大上段に構えているくせに、くだらないペシミズムに降伏しやがって結局ニーチェ永劫回帰論にも届いていないじゃないか。だいたい、それを言っちゃあお仕舞いだろ。つうか、そんな自明な結論で完結してしまえるのなら、あんたこそBLOGを閉じて放浪の旅に出た方がいいんじゃないのか。
 
そうじゃないだろ?そういう諦念めいた姿勢など、あんたの半身に過ぎないことぐらい自分でもよく分かっているだろうに。どれだけ言葉を尽くしても(尽くしたつもりになっても)ほとんど通じなかったりくだらない揚げ足取り的反応をされたり本当に嫌になるけど、それでも諦めきれないもう片側の体半分が書けと言うから「変わり得ぬ人」を少しでも変えてやろうと大事な時間を投資してるんだろうが。あんたも俺と同じで時間が少ないんだろ?だったら自意識など冷凍庫にさっさとたたき込んで、伝達に於ける最大限の効率はいかにして発揮されるかをとっとと考えやがれ、馬鹿野郎!