★今更語るべきことでもないほど当たり前のことなのだが、「超絶的なバランス」のなかにこそ求めるべき全ての答えがあるのだ。

ニューヨーク・シティ・バレエ「ナットクラッカー(クルミ割り人形)」は想像の枠を遙かに超えて物凄く素晴らしいものだった。バレエダンサーの動きのあまりの美しさに心打たれてしまうと時に涙を流してしまうことがある感受性剥き出しのセンチメンタルバカの俺様だったりするのだが、今日という日は泣きに泣いた。声が出るのを堪えるのが必死なくらいに涙が出やがって、しまいには鼻水まで遠慮無く流れ出す始末。もちろん体は初冬に人間に見つかった草食動物みたいに小刻みにぷるぷる震えていたに決まっている。
 
いや、俺様も終盤の「花のワルツ」までは感動に震えるものの涙腺に於けるミクロの鳴動は充分に許容範囲内だったのだが、そのあとのパ・ドゥ・ドゥで一気に打ち付けられた。10アンペアマックスのヒューズに200アンペアの電流が突然流されたような衝撃。そうだ、それは当に電撃の次元の違う入力過多だったのだ。
 
あのプリマドンナの足の上げ方の美しさとなによりその超絶的なバランスは、チャイコフスキーの音楽の素晴らしさも支えとなって、今まで見た全ての芸術作品を超越して孤高の位置にあった。そう、今更語るべきことでもないほど当たり前のことなのだが、「超絶的なバランス」のなかにこそ求めるべき全ての答えがあるのだ。それを何故だかほとんどの人は気付いていないのだが、だからこそ普遍的詩人としての俺様の存在価値が多少なりともあるのだと俺はそう思う。