★明日はタイムズスクエアのカウントダウンパーティに行ってくるぜ、バーカ

基本的に365日という永遠とほとんど同義の長大な時間を一区切りでしか区切らない年の瀬という慣習はむしろ拒絶したい類のものであるのだが、内心揶揄しながら楽しむべき表面的な流行の一つだと片づけるならばまぁそれなりに楽しめるアトラクシオンの一つだとは思う。実際に俺様も約29時間後に開催されるタイムズスクエアのカウントダウンパーティには【2005】という形の定番のメガネを持参して全力で燃え上がってくるつもりだし。俺様はアメリカ人という文化的田舎者達を鼻で笑う嫌みなフランスかぶれの一人だが、沢山のアニベルシテを拵えて毎度毎度頭をパーにして騒ぎ尽くすわれわれの時代を退廃的だと仮定したそのサバイバル術には、いかほどかの感心を禁じ得ないのだ。
 
いずれにしてもわれわれの宇宙は寛容だ。いかように現代を規定しても文句の一つも言わないし、われわれ(わたし)が何をしたとしてもその存在を排除しようと動き出す兆候は今のところ微塵もない。まるでわれわれ一人一人に真っ白のキャンバスを与えてくれているようだ。であるならば他人の価値観に縛られずに自由に絵を描いてみたい詩を書き綴ってみたいと俺様は思う。大いなるものの擬人化は思考の退化にほかならないが、それを充分に認識した上でなら、与えられたフレームを生かすことによって彼(彼女)に密かに感謝を感じるのは逃避ではないと俺は思う。
 
「限定(フレーム)」というのはもちろん、「無限なる自由」ということと同義である。限られた視野しか持たないわれわれは限定無き舞台では立ちつくしてしまうからだ。だから勇気を持って真っ白なフレームの中で前に進もう。踏み出した軌跡がもれなく俺たち独自の作品を形作る。せっかくの自由な舞台なのに他人と似たような絵を描いてどうするんだ。愚かな本質的プリズナーたちよ。さあ鎖を断ち切ろう。前は開けている。
 
 



 
 
吉田から嬉しいコメントを投げられているが、それに対するレスはまた後ほど。これからニューヨーク・シティ・バレエの風物詩「ナットクラッカー(クルミ割り人形)」を見てくるんでね。