●NY行動記録 at 10th/Dec.【後編】

行動記録の12/10分【後編】も他の所の掲示板で7つもエントリーしている内に、すっかりタイミングがずれてしまった。仕方がないので、箇条書き程度に書き留めて完結させることとしよう。
 
アイリッシュパブを6:30にあとにして、赤ワインを2本とデザート用のソーテルヌワインを手に入れる。8時までまだ時間があったので、俺様のアパートに全員で帰ってきて紅茶を飲みながらゆっくりする。予想より早く8時15分まえにドナテッラ(イタリア人の彼女の方)から電話が掛かってくる。同じビルディングに住んでいるものだから、全員エレベータでイタリア国ローマ市に向かう。入管はなぜかない。エレベータが開いたらそこにはふたりの姿が。さすがこのあたり、日本人よりもずっとパーティ文化において先行している。部屋の中に招待される。今日の料理は、バリエーションを付けたオリーブペースト二種をパンに塗ったオードーブル二種と、パスタ二種。総勢10人と言うことで、物凄い量のパスタだ。オードーブルを含め(アンティパストと言った方が良いのか)当然全て美味かったが、とくにズッキーニのスパゲッティが絶妙だった。予め彼らが用意していた赤ワインを含め、全員でどんどんボトルを空けていく。イタリア・スペイン・メキシコのラテンカルテット対小国日本の竹槍連合という歴史上にない不思議な陣形だ。会の終盤には、モデルみたいな顔と超絶スタイルをしながら胸だけが100センチ以上あるとおぼしき22歳のコロンビア人のクラスメイトのバストのことで大いに盛り上がる。俺様も、最初はいいのかな、と遠慮していたのだが、イタリア男のマルコの挑発に乗って一度堰を切ってしまうと止まらない。「いやいや、みんなはふざけているだけかも知れないけど、これは充分にアカデミックな話なんだ。すくなくとも『おっぱい学』の権威の俺としては、確実にそうだ。なに?そこまでいうならワインのようにテイスティングして検証してみろだと?バカ言うな。そんなことをさせたら、アイマスクを付けたままでも、ラテンアメリカ、、、コロンビア、、、と産地を特定していくばかりか、さらに時間を掛ければEメイルアドレスやフォーンナンバーまで割り出してみせるぜ」などと完全に悪のり大王ぶりを発揮したりしていた。そしてあっという間に12時前。全員でお礼を言って退散し、俺様の所でアイスクリームを食べて一日がお仕舞い。という長い一日でした。じゃんじゃん。
 




>吉田さん
本当に本名かどうかは分からないが、とにかくがつんとかっちょいい。これで判別が尽きます、どうもありがとう。あと、対象に(世界全体に)石を投げ入れる、と言う感覚はとてもよく分かります。個人的には、石を投げ入れたときの波紋のありようを観察するのが好きです。
 
(「▼コメント晒し」コメント欄より引用)
「おいらが属している様な一般庶民からすれば、けむりんさんの言ってることは超胡散臭いっす。」
ほお。疑いまくれ、と書いていても、一般的にはそういう印象を持たれやすいんだ、なかなか面白い。
 
あと、こっから
全ての存在は流動的で相関であるのに、なぜ地球上では僕たちの呼ぶところの重力が何の疑問もなくルールとして通用しているのか。
もちろん大気圏を抜けて地球から抜ければ重力から開放されるし、重力ってのはこの世の全てどこでも同じようにあるわけでなく
普遍的なルールじゃないことはわかる。でもなんで僕たちの周りでは通用するようにデザインされているんだろうか。
なんで植物はある一定のルールにしたがいつつもあれほどまでに多様なのか。道端に転がる石ころだってルールから
外れていない。石ころがいきなり金に変わるなんて奇跡は起きない。絶対的なものがないなら、おきてもいいはずなのに。
難しいことは知らないけれど、時間も同じだと思う。僕たちは等間隔で時間は過ぎているものと考えているけど、
普遍的なルールじゃないってことはアインシュタインが証明したのかな。だから、始まりと終わりって言う
時間軸がなければ成立しないような概念が何もかもに通用するとは限らないんじゃないか。
宇宙に始まりと終わりがあるなんて、とてもじゃないけど言えない。証明しろと言われれば無理だけど。
何もかもを包み込む全体を仮に宇宙と表現するなら、その全体はただあるものとしてある、始まりとか終わりなんてない。
こう考えると、全ての存在は関係である・全ては相関、っていう捉え方とすっきり整合するんじゃないかと思った。
で、ちょっといやらしい見方をしたら、存在は相関に依るものだとしたら、相関に依らない何かもあるはず。
関係によらない唯一の存在、それが全体であるんだと思う。
ここまではなんの異論もありません。
 
俺様的には普通に共感できた。つうか、至極当たり前のことなのだけれど、当たり前のことを受け入れられないのが人間の愚かさ。百発百中ということこそが凄いことであり奇跡であるのに、百発九十九中を求め一発の奇跡を期待する、そこが嘘つき(歪み)の始まりなのだ。それはもちろん、鏡を曇らせて都合の悪いものを隠蔽する為なのだけれど、それによってスポイルされているものの大きさを彼らは知らない。そういう訳で、壁抜けに不可欠なものを挙げるとすれば、第一に「自己の死」ということになります。「自己の死」を受け入れれば必ず壁抜けする訳じゃないけれど、絶対必要な条件です。わたしが今まで出逢ったリアルに壁をぬけた人の一人は、22歳の時に大病を患い、体重が半分以下の32キロまで激減し、完全に死を覚悟した数時間後、どかんと来たと言っていました。一休なども、月ひとつない闇夜に自殺しようと琵琶湖に漕ぎ出していって、そこで聞いたカラスの鳴き声をきっかけに見性した。かと思うと、そのパターンだけじゃない。道元などは、一人で「洞察」と「観察」を繰り返していたある夜に、一休と同じく「竹の裂ける音とホトトギスの鳴く声」を聞いてどかんと来るし、釈迦なども明けの明星を見てどかんと来る。しかし、いずれにしても後者のふたりの場合は、あらかじめ「自己の死」という問題は受け入れていたのだと思います。そうでなければ、ドミノが中心から同心円上に一気に倒れていく感触の、辻褄の完全にあった現実世界との邂逅などあり得ませんからね。つまり、前者のパターンと後者のパターンでは、順番の違いはあるにしろ「自己の死」は避けては通れない踏み絵なのだと思います。結局、人の自我の強さは、一度死んでみなけりゃ直らない(ほど強い)ということになるでしょうか。
 
あと、「電波満開お花畑な話」と書いていた部分についても、あからさまなオカルトならともかく、そうではないんだからまったく違和感のない話。つうか、性質上原理的に人間の99%以上は、本質を隠蔽しながら生きているんだから、直接的な迷惑さえ掛けなければ、他人の目を意識しすぎる必要はないですよ。事実を話せば大半が嫌な顔をするのは、彼らのごまかしが顕在化するからです。ただそれだけ。だからこそ、ネットというのは、責任の度合いと匿名性がちょうど良いバランスで取れている、と思っているから、このようにダイレクトにものを書いているのです。
 
近々、フィジカルにもがっつーんと来たらほんと良いね。そのさいには、ぜひ、「俺にも来やがったぜ、この野郎!!」と報告しやがれ、この野郎!!
あと、見性への準備を整えるのに、あなたくらい思考が整理されているのなら、前にも紹介したけれど、鎌田茂雄の『華厳の思想』講談社学術文庫がお勧めです。はっきり言って、ある程度分かってきた人には、めちゃめちゃエキサイティングな本だと思います。
 
「まあ言いたいことは要は俺が金持ちになって世界で指折りの美女とセックスしたいってことだと思います。」

うん、結局そういうことには違いありません、ええ、ええ、それはもう。