BLOGについて少し考えてみる。

ここ36時間ほど家(BLOG)を留守にして、某文学系掲示板でさまざま議論を交わしたけれど、その議論がわりと充実したものだったということは別にして、掲示板が今後、意見の交換場所ではなく、アンケートなどの採掘場所、および単なる「掲示板的」情報のやり取りだけに終息していくということが改めて分かった。
 
掲示板では、投稿者がどんな人間か分からないから、初めての人にはどうしても意見の発信点(筆者の立ち位置)が分かりにくくそれ故伝わりにくいし、そこに比較的旧知の理解者も混在したりするから、閉塞感といつも隣り合わせだ。書いたものは読み手に連続性が薄く、それゆえ対象が曖昧だから、結構熱を入れて書いたとしても、底のない井戸に石を投げいれるような無力感と徒労感を筆者にもたらし、時間の経過と共にそのような自分的資産は、まるで最初から存在しなかったかのように闇の中に葬られていく。物凄く非効率だ。
 
BLOGがもたらしたもの、それは名刺の作成だ。プロフィールだけでなくエントリーの蓄積がその人の顔となる。これは驚くべきことに、たとえ匿名のBLOGであっても、当人に一定の責任感を付与する。いままでのネットの最も非効率な原因の収縮がそこにある。そしてそれを土台にコメントや、トラックバックというさらに能動的な機能が加わることによって、ひとつひとつのBLOGは脳内のシナプスの一つと化す。
 
そうして完成したインフラを元に何をやるか、ということが自由自在に選択されうるのだが、いままでの非効率をかなりの部分そぎ落としたこの疑似人間(疑似個性)がネットに完成するということは、その連鎖によって、おそろしく高速の疑似社会が現出することを意味する。その高速性はもちろん、現実社会の閉塞感を突破しうるものだ。
 
こちら側からの単純な伝達や相互の情報交換という基本的機能以外に、物凄くコストの低い市場調査の機能があるなど、その高速性はさらに、ネット上のみならず現実社会を補完するものにもなりうるだろう。いままで分断されていたネット社会と現実社会が、僅かではあるがしかしまたもやその高速性がゆえに確実に、少しずつ繋がりを持ち始める。
 
少々、大げさすぎるかもしれないけれど、可能性が見て取れる時には、多少大風呂敷を広げた方が勢いが付くというものだ。わたし自身、このBLOGを具体的にどうやって使っていくか、ということはまだ明確にはなっていないが、いつも考え続けて行きさえすれば、想像もしなかったようなことが、いつものように勝手に向こう側から貼り付いてくるものだし、またそのネットと現実社会の繋がりの変化がどうなっていくか、ということを観察するアイコンとしても、なかなか興味深いものだとわたしは思っている。