●俺様のNY行動記録 at 10th/Dec.【前編】

今日は、図らずも12時間ぶっ続けパーティー状態となってしまった。ことの起こりは早朝の日本からの電話だった。父親が急遽入院したということで、来週日本に帰らなければならないこととなり、それでも緊急を要する病状でもないことから17日から24日までの帰国と言うことで調整した。彼の経営する会社のハンドリングをしなければならないのだ。投資家であり禅的見性者である俺様は、このような状況の突然の変化が起こりうることを何時でもイメージしているものだから動揺はかなり少ないのだが、それでも大型の状況変化への可能性が開けたことにより(つまり未来への新たなる可能性との関係性が結ばれたことにより)、それ以前とまったく同様の人間でいられるわけがない。たぶんそういう精神的な変化があったのだろう、今日のクラスメイトとのランチをチープだけが取り柄の平凡なデリの二階で取ることに耐えられなかった。正直、毎日毎日同じことの繰り返しで飽きていたし、今朝の一件があったものだから、余計に「同じ毎日」という虚構をぶちこわしたくなった。何時もランチはだいたい5人〜8人くらいで取っている。だから俺は、1時に授業が終わるやいなやその全員に声を掛け、俺様のいつものお気に入り「そば日本」へ蕎麦を食いに行くことを提案したのだ。通常3ドル〜5ドルでランチを食べている俺様以外の貧乏学生たちに、ニューヨークのビジネスマンが好んで食べる20ドルのランチなどそもそも論外であり、もちろん費用は俺が全て持つという提案だった。

最低限の基本的ルールとして、彼らにしてみれば超大金持ちの俺様が、彼らに1ドルでもおごるというようなことは普段かたく自らに禁じている。悲しいことだけれど、「ネズミにミルクを与えると、次にはチーズをよこせとねだりだす」というのは人間の性質でもあるからだ。金を出すこちらが、金銭的損失も被りながら精神的・関係的損失も甚大、というのは、全くあり得ない選択肢だ。しかし今回はどうしてもそこで飯を食べたかったし、だれかとだれかの誕生日パーティと言うことでランチ後にアイリッシュパブに行くことになっていたから、誕生日を理由として例外を装ったのだ。正直、理由なんて何でもよかった。

タクシー二台の8人体制でそば屋に向かう。深夜3時頃俺様の部屋から帰るときであっても1時間以上の電車待ちをしながら地下鉄で帰る彼らには、イエローキャブを使うと言う選択肢すら非日常的なものだ。俺様にとってちょっとした非日常と言えば、ロングストレッチのリムジンを使うことぐらいのことで、おそらく頻度的には俺様がロングストレッチを使うことの方がより日常的のように思われる。それなのに普段良好な関係を築けているのは、ある種の奇跡のような気がした。

「そば日本」では、俺がリコメンドした「天そばコンビネーションランチ(19ドル)」を全員がオーダーした。つうか、スペイン人やメキシコ人は、初めての本格的日本そば体験であるし、他の日本人なども久しぶりの日本料理を食べさせてもらうのに文句なんて一切ないですよ、ええ、ええ、嬉しすぎますよ、てな感じだったので当然の帰結といえるものではあった。当然俺様は、サッポロの瓶ビールをオーダーすることも忘れない。しかし当方の漠然とした予想を遙かに超えて、大瓶が6本並んだところから我がテーブルは大盛り上がりの様相を呈し始めた。ちょっときれいなスペイン人の女の子は「サッポロー、サッポロー」と言いながら写真をバシバシ撮り始め、キュートでかなりかわいいメキシコ人の女の子は、「初めて飲んだけどすごく美味しいわ。コロナも良いけど日本のビールも良いね」と英語とフランス語が混ざった独特のスピード感のある言葉とともにラテンの笑顔を開花させる。バドワイザーばかり飲んでいる日本人たちにとってもサッポロは格別だ。ほどなくして、今日のミニどんぶり「ヒラメ丼」と小鉢の「温泉玉子」が運ばれてくると、まだメインのざる蕎麦と天ぷらが運ばれてくる前だというのに、幸せな表情に包まれた「ほっこりとした」8人組がそこにいた。今日のコースは何時にも増して確かに美味い、俺もそう思った。完璧な助走を経たあとに、この店の実力通りのざる蕎麦と天ぷらが来ると、われわれという飛行機も当然スムーズに離陸し、大空へと舞い上がった。あまりにも美味しそうに食べているものだから、全体写真を撮って差し上げましょうか、と支配人が提案してくれた。会計のあと、なんだかお騒がせしてしまって済みません、でも、彼女たちスペイン人とメキシコ人にとっては、今日が初めてのそば体験だったらしいのです、そしてそれが「ほんとうに美味しかった」と喜んでもらえたことが、僕にはすごく嬉しかったのです、と支配人に感謝すると、彼は「ケベックの自家製農場で栽培したそばを毎日挽いているのがおいしさの秘訣なのです。とにかく毎日その場で挽くのが大切なのです」と説明してくれた。メキシコ人の彼女はケベックに住んでいるんですよ、と伝えると、いかにも日本人的な英語で、農場がケベックの何処にあってどれくらい手を掛けて作っているかを説明してくれた。メキシコ人の彼女は15日でニューヨークを離れることから、俺たちとランチを食べることができるのは、今日を入れてあと二回だったと言った。そういうことなんだ、と改めて自分に言い聞かせる。くだらない日常の連続は、それが取り返しの付かない何かになったときに初めて、拒絶すべきものであったことを再確認させる。それに気付かないふりをしながら生きている奴らは単なるバカであるだけでなく、多くの場合他人に迷惑をかけ続けることによって歪みを不可視化しようとする。もちろん、どんなに刺激的な生活を送っていたとしても「日常」というものは気付かぬうちにわれわれを包み始める。俺は、その戦況を見極めながら、いつでもその間隙をつこうと虎視眈々と生きていきたい。





まるはさん
丁寧に説明してくださってありがとうございます。
今まで考えもしなくてまったく気づいていなかったけど、実はこの世にはなんだかすごいことがあるということ。しかも、自分にもそれが体験(?)できる可能性がゼロではなさそうだということ。この二つを知っただけでも、ものすごくワクワクしてます。
考えること。知ること。これがこんな風に楽しいと気づかせてくださったこのブログに感謝します。

かならず、自分の価値観の外側というものはあるものです。そして、当たり前のことですが、外側ということばからも明らかなように、常に外側の世界の方が広々としているものです。あなたが悩んだとき、それは常に内側の価値観を土台にしてのものなのです。そしてそれは外側から見れば、意外なほどにちんけなものだったりする。こういうことはこの世界の構造的アナロジーから容易に理解されうることだと思います。
考えること(=疑うこと)は、生者に与えられた唯一の武器であり、知ることは、過去の自分と決別することですから、常にエキサイティングです。
そしてもちろん、誰にでも見性という分厚い壁抜けは可能である、というのがこのBLOGの主張であり、おそらく真実だと思います。

あふらさん
俺も最近ROMしてます。空売りスレの新参です。
面白いぞ。この野郎!上と同じく感謝。
でしゃばってすいません。

気にせず、書きたいときにがんがん書きやがれ、この野郎!!
このBLOGはどんな馬鹿野郎も、ウエルカムだ。