★ラストサムライ・イン・ニューヨーク

今、プレミアチャンネルのHBOでは『ラストサムライ』がやっている。今週何度も繰り返しているので、途中から見たのも含め、ニューヨークで見るのはこれで三回目だろうか。

ラストサムライ』と言えば、今日、ジャン・ポール・ゴルチエにお直しが出来上がったセーターを取りに行ったときに、いかにもゴルチエというか、ゴルチエしかデザインできないであろう女性物のたっぷりとしたファーの付いたロングコートを見つけた。それが特有のアバンギャルドさだけでなくとても上品でかつ格好いいものだったので、ワイフにどうだろう、と思って見せてもらっていたら、店員のエヴァレストが「このコートとあのコートは、サムライの鎧をモチーフにしてデザインされたんですよ」と教えてくれた。へー、そうなんだ、興味深いね、とか言いながらHBOのことを思い出し、あ、ところで『ラストサムライ』って見た?と聞いたら、彼は首を左右に振りながら大きなため息をつき「あんな素晴らしい映画をわたしは他に知りません」と答えた。ブティックという場所柄それ以上詳しく聞くことができず彼がどの辺に感応したのかはよく分からないが、西洋人でも茶の湯を解する人がいるのだからあながち意外に思うこともないのかもしれないのだが。ただ、異文化同士がスパークする接触点というのは、わたしにとっていつも実に興味深い。その瞬間人は不可避的に価値観の小さからぬ再構成を余儀なくされるからだ。もちろんその構造は、見性や、そのさきに何度も行われる再構成による洗練を想起させるものだ。状況さえ許せばぜひ彼に詳しく話を聞いてみたかった。

話は、映画の内容に翻る。『ラストサムライ』のクライマックスはどこだろう。いろいろあるとは思うが、わたしは、渡辺謙演じるカツモトが最後の突撃後トムクルーズ演じるオルグレンに支えられながら自害する場面だと思う。それまで「桜の枝には完璧に美しいものがなかなかない」と言っていたにもかかわらず、最期の最期で「Perfect・・・They are all perfect」と言って(ということに気付いて)死んでいく。当たり前だけど、あれは真性の見性の瞬間だ。 彼はあの瞬間、自分が完璧なるものに自分が生まれる既に前から包まれていたのだ、という事実に気付いたのだ。一体どれだけの人がその場面の意味を理解しただろう。ゴルチエの彼が理解しないまでもその部分に強いインパクトを感じたとしたら、それは当然あり得ることだが、意外に枠の中に居つづける日本人よりも、外側からの視点をもつ外国人の方が、茶道や武士道の奥義にスパークしたとき、自分を形作っている分厚い壁を突破する可能性は高いのかも知れない。