★軽いレスをさらりと

(下の方に補足説明の追加あり)

>教授さん

(「●俺様のNY行動記録 at 3rd/Dec.」コメント欄より引用)
それから、洋服屋めぐり・・・さぞ楽しかったでしょうね・・・
ホント、心の底からうらやましいです・・・・。
私は普通の服屋でちょっとやってますが、それはもう至福のひととき。
しかも、気に入った物を安く買えた時の喜びは一入です。

よく分かります。新しい洋服を買うと、昨日の自分とは別人になってしまったような気がするんです。いや、実際にそうに違いないんだけど。

でもそこは無職の留学生、一着平均$20以下で頑張ってます。
(私の場合、高かろうが安かろうが飽きる期間は一緒なので。)

わたしも学生時代はそんなもんでしたよ。しかし、今は、行くレストランとかホテルなどが相応のものになってきたから、よい品質のものを着ざるを得ないんです。もちろん、自分としても好きで着てるんだけど。

そのかわり、靴と鞄はそこそこ良いのを買う。

おお。よく分かっていらっしゃいますね。さすがです。正直、鞄はともかく、ファッションの85パーセントは靴で決まる、と思っています。

高級ブティックめぐり・・・私には縁のない場所ですが、
まるで行ったみたいに楽しませていただきました。

楽しんでもらえてよかったです。


>人参湯さん

(「★まぁこんなところだろう」コメント欄より引用)
人を感動させるのは、言葉ではなく、体験から来る信念である。・・こんな感じの事でしょうか?

どうでしょう。その人が感動するのは、あくまでのその人が、ある人の「言葉や行動などを含めたあらゆる表現活動」に『感応した場合』に限られるので、いかにその表現に傾聴すべきものがあったとしても、能動的に「感動させる」のは不可能だと思います。そして、言葉というのは、ある種の体験があったとき不可避的に創出される(正確には組み合わせられる)ものなので、体験なしには語られないものだと思います。

けむりんさんに質問なのですが、見性することと、その人の体験との間には、なにか関係はあるのでしょうか?

関係があるも何も、そもそも「人」というのはDNA的な基礎的条件もありますが、思い切ってぶった切ってしまえば、「体験の総和≒人」ということになるのではないでしょうか。「言葉」との邂逅も含め、ある種の体験を重ねてきた人だけが見性の準備を整えるのだと思います。

【補足】
「体験の総和≒人」と書いたけれども、全ての物事の見方にはいろいろなアングルがあるので、「体験の総和≒人」だけで人というものを言い尽くしているのではもちろんない。だから「ということになるのではないでしょうか」というよりも、「という見方もできるのではないでしょうか」という位の方が適当か。それ以外のアングルからの一例として「人=その人の環境そのもの」という見え方も当然ながらある。
(補足おわり)

たまには、こういう軽いエントリーも悪くないね。書く方も読む方もストレスが少なくて済む。だからといって、これだけで続けられる俺様ではない、というところが問題なのだけど。