★まぁこんなところだろう

11月11日のエントリー「★そろそろ当BLOGのベネフィットを明確にしておこうか」以降、見性体験とそれに関わるベネフィットについて、三週間ほどの長きにわたりそれなりに纏めてきたわけだけれど、先日の「★千年後の世界」と「★蜘蛛の巣的世界観」を書いたことによって、自分としては一区切りついたような気がしている。

俺様としては、これを「見性解説専門BLOG」にするつもりなど元々なく、筆者は見性(壁抜け)を完了しているんですよ、見性後の世界からの視点でものを書いているんですよ、ということを明確にしたうえでBLOGを立ち上げたかっただけなのだ。実際BLOGという形式で、世界観(思想)に関わる解説をしていくというのはいかにも体裁が合わないし、もしそういう解説が欲しいのなら、幾らでも難易度に応じた解説書が出ている。というわけで、この辺りで「フィクションを一切排除することによって訪れる、辻褄のとれた禅的境地というのは確かに存在する。俺様はそれを獲得したし、その先に広がる広大な世界へとどんどん突き進んでいる」ということだけ明らかにして、見性に関わるダイレクトな書き込みは一旦終息とする。今後はまぁ、義務感に縛られず好きなようにやっていく、ということだ。

そういうわけで、彼へのレスだけは済ませておこう。終始厳しいことを書いているが、怒っているのかとか、そういうくだらない印象を持たないように。あくまで俺様は氷のように冷静だ。

けん大佐(「★蜘蛛の巣的世界観」へのトラックバック「卒論まとまってきた?」からの引用)
彼と僕のスタンスは、

・『体験』に対する肯定の度合い
・それを他者に浸透させる手法

の2点で異なっている。
2点目の相違は1点目の相違によるところも大きいようだ。
彼がとても肯定的なスタンスをとっているので、
僕は否定的なスタンスをとってみたりしているのだけど、

見性体験に関わらす、全ての過去についてそれを肯定的に受け止めることができるかどうかは、「母親との幼児体験が良いものであったか」ということももちろん大きいことなのだが、基本的には現在の自分の人生が充実しているかどうか(肯定できるものであるかどうか)に依るのだ。だから、毎日に充実感を感じまくっていて人生を楽しみまくっている俺様が、苦しかったことや辛かったことも含め、過去を絶対肯定してしまっているのは当たり前なのである。反対に、大手とはいえども書店員として就職することがほぼ決定済みで理想面においては幾らでも夢が描けるものの、実際の収入面においては厳しい現実にさらされることが確実で、そういうことにうすうす気付いてしまっているくせに、どこかそういうことを半ばごまかしちゃってるけん大佐が過去を絶対肯定するのは、難しいのではないだろうか。ニヒリストを気取るなら、自分が満足するポジションに自分をおけているのかをまず疑うべきである。

あと、はっきりいって、けん大佐と俺様とでは、壁の突き抜け方、その後の世界観の深まり方において決定的な差異がある。そのようなふたりを同一線上で論じているところにそもそもの無理がある。

僕がそれの論理性にこだわるのは、
より一般的な理解を得たいから、というのが一因で、
けむりんのようにストレートな、既存宗教的な手法では、
既存宗教になびくようなタイプの人間にしか影響できないと思う。
(中略)
僕は、昔の僕自身――論理重視で宗教は毛嫌い――を納得させられるような手法しか採りたくないワケです。

などと書いているが、論理性があれば一般の理解が得られる、などと考えている時点で人間の性質への考察や歴史認識があまりにも浅いことが分かる。さらには、このBLOGを見に来てくれていてそれなりに興味を持ってくれている人や、俺様が普段の生活で影響を与えている人たちが「既存宗教になびくようなタイプの人間」だと一纏めにしているのも暴論だ。以前から感じていたことだが、総じてけん大佐の論には、少しでも似たものを簡単に一纏めにする性質があるように思われる。たとえば、「宗教」と「宗教的なもの」と「哲学」と「科学」というある種補完的なカテゴリーがある。これらは多少似たところがあるにしても、議論の初期段階においては明確に区別しておかなければ考えがまるで深まらない。けん大佐は、そういうところでまず躓いているような気がする。ただ、このBLOGは、俺様にとって表現の場であると共に、自分の考えを纏める場でもあるので、手法がダイレクト過ぎるように感じるのも分からないでもない。しかしだからといって「既存宗教的な手法だ」といきなり単純化してしまうことは全く理解できない。

正直、思考が見性の前後で全く深まりを見せていないことといい、見性後3年も経つのにいつまでも壁をきれいに抜け切れていないことといい、寂しさから全然自由になれていないことといい、けん大佐が本当にど真ん中から見性したのか、俺には分からなくなってきた。禅などによると、見性には、ど真ん中の見性と仮の見性があるらしいが、彼のは後者なのではないかと最近の俺は考えている。

ここまでダイレクトに書いたのだから、最後まで徹底しておこう。かれは当該エントリーの最後でこう結んでいる。

僕自身は、過去に僕が通ってきた道筋を考え、
それに沿うような若者を増やすべく、現在の仕事に就いています。

このあたりに、ろくに伝達を実践したことのないものの甘っちょろさと中途半端に見性した彼の自己欺瞞が滲み出ている。はっきりいって、ニヒリストの書店員の言うことなど若者は聞きはしないのだ。社会的に成功したものや、金銭の絶対値にかかわらず物凄く楽しそうに生きている人間にしか耳を貸さない。自分もあのようになりたい、そう思わせることが、伝達を志す大人の絶対条件なのだ。