★蜘蛛の巣的世界観

先日、 「フィレンツェの夕日(後編)」という ぷにさんちの旅行記のエントリーに対して以下のようなコメントを差し込んだ。

  美しき思い出が一杯詰まった旅の記憶は、
  流れるような文章をわたしに書かせる。
  書いているのはわたしではない。
  旅の記憶がそれを書かせているのだ。

それに対してなされた本人からのレスに、次のような一文を得た。

すごくよくわかります。時差を飛び越えて想像を膨らませたり、その街に上るであろう朝日を想像することで、肉体を飛び越えるような感覚すら覚えます。

わたしが先日、脳を極限までオーバードライブさせてエントリーした「★千年後の世界」のなかで書いた「このあたりから、空間的距離感や数直線的時間性というものの絶対性がかなり疑わしくなってくる。もっとはっきり言ってしまえば、空間的距離感や時間的厚みをもう少しで乗り越えられそうな気がかなりしてくる。」というのは、つまりそういうことを言っているのだ。

ぷにさんが得たその感覚をもっと恒常化するための作業として、全ての事象が(当然、物理的事象だけではなく、個人の思考・感覚など、この宇宙を形作る全ての有形無形の現象の一切を含む)、「なぜ今そのようになっているのか」ということを、そうなるべく影響を与えたものの一切を関連づけて凝視してみる。ひと言でいうと、「流れを観る」ということだ。毎日、ほんの少しの時間でも良いから、この作業を続けて欲しい。場所はどこでだってできる。そうすると、ある瞬間どかんと来ちゃったりするから、われわれの人生は面白い。

その上で、われわれが大前提的に持っている尺度的距離感や数直線的時間感覚そのものを疑ってみる。そうするとわたしが同一のスタンスで言い続けている世界のダイナミズムが分かってくる。自分が物凄い世界に生きているのだということが分かってくる。ついでに言うならば、人間が関係性において不死だと言うことも分かってくる。わたしはカラヤンに、彼が死んでから出逢った。小説を読むと、ドストエフスキィの息吹と肉感が感じられる。顔も見たことのない釈迦や親鸞などに「ああ、あいつもわたしと同じ世界を観、同じ苦悩を抱えていたのか」と、まるでいま隣にいるかのような親しみと皮膚感を感じる。

近親の人を亡くして絶望に喘いでいる人に、状況が整ったここぞという一瞬があったときにのみ、わたしは命がけでいつも同じことを話す。わたしがこのBLOGを書くときよりも、集中力を千倍にして、死を覚悟しながらそれは語られる。

「亡くなったあの人のことを想い出す瞬間がある。しかしそれは、あなたがなんの脈絡もなく突然想い出しているのではない。人間の感情や行為というものは、すべからく外側からの何かに対する反応だからだ。生きている人と亡くなった人との違いというものは、考えられているよりも、もっとずっと曖昧なものだとわたしは思う。そしてそういう区別なく、全ての人とわれわれは、糸電話において繋がれている」

死と生などというのは、真理というコインの裏表に過ぎないのだよ。しかしながらわたしは、今暫くコインが表を向いている間にしかできないことを、さがしながら生きていきたい。