★相対からの脱却を夢見て

さて、新たなる世界への追求の旅を続けようか。

しかし、わたしが「そろそろ当BLOGのベネフィットを明確にしておこうか」を書いて以降の反応を見るに、ほんとプリズナークラスの人たちは詰まらないところで躓(つまづ)いているんだなあと言う事が分かる。それはすなわち、出口のない洗濯機のなかでぐるぐる回るべくして回っている様々な要因が見て取れるということなのだが、そのあまりの陳腐さに、時には嘲笑しながら、時には悲しみながら、時にはやれやれとため息をつきながら見ているぐらいしかないのだが、いつまで経っても変わらないその流れを見続けるのは、やはり退屈さとやり場のなさを感じてしまう。人間というのは、同じ所をぐるぐる回るのではなく、同じ流れるのなら、新たなる景色を目指し、そして何時か辿り着くと信じる海を目指す、川であるべきなのだ。

「それは精神的山の8合目に立つということだ」というメタファーを示したときの反応も、多くの人のそれはとても閉塞的だった。精神的世界の構築・整理というのは、非常にプライベートな領域であり、通常その俎上に「他人」というのは問題の主要課題になり得ない。あくまで、「このわたし」がどのように世界を観、その世界とのコミュニケーションのあり方をどのようにシフトするか、ということに尽きるのだ。こんなことは、わざわざ書くまでもないことであり、当然の基礎知識だと思っている。それなのに、多数の人の反応は、そのプライベートな領域に他人を登場させ、それとの比較から、困惑し、憤慨し、優越感に浸り、自虐している。つまり、いじけているのだ。

他人との比較などに本質的意味など何もない。それは指標になるだけだ。相対に意味があるとするならば、そのような並列的な比較なのではなく、自分自身との直列的な比較のみであるのだろう。

わたしのBLOGを読む人には、一個の個人として世界に立ち向かう独立した誇り高き姿勢を求む。隣の畑を妬み(ねたみ)羨む(うらやむ)閉鎖的な態度は、あまりにも醜く、なにより不健康だ。孤独を受け入れよ。あらゆる社会における前提的な価値観など、それを運営するための装置に過ぎない。すべての価値観の外側を意識したまえ、外側に立ちたまえ。さすれば陳腐な内側の価値観に踊らされ続けてきた自分に気付くことができるだろう。疑いたまえ。徹底的に疑いたまえ。ファンタジー、フィクション、オカルトの類の一切を疑いたまえ。そしてそれを作り出した自らの弱さに気付きたまえ。それらを完全に破壊し尽くしたとき、われわれはわれわれが縛られ続けてきた相対的価値観からの脱却の道を歩み始める。さあ、何時までもそんなところに止まっていないで、早く先に進もう。そこには、各個人が尊敬し合った一切の差別のない、きらきらとした美しき流れが待っている。


次回は、「不可欠な存在としての くそったれのあなたの尊さ」というテーマで書く