★そろそろ当BLOGのベネフィットを明確にしておこうか

BLOGの魅力、それはそれが個人の日々雑感形式を取る限り、それを書く個人の魅力にほかならないのは論を待たないところだろう。であるならば、ここでわたしが当BLOGのベネフィットを明確にするという場合、わたし自身が一般的な人たちとどこに差異を持つか、ということを、開陳する事になる。

われながら、いささかダイレクトすぎるという気がするし、いささか性急すぎる、という気もする。少なくとも、通常の日常社会においては、斯くのごとき告白はしないものである事は十分承知の上であるが、あらゆる社会的拘束から自由になれるのがネットの可能性であり、また当然ながら、いたずらに時間を浪費しないことも優先されるべきことである事から、このタイミングで読者を「次の間」に誘引する事にしたのである。

わたしが相対的に特殊であるところ、それはその生活形態にもあるが、決定的なのは、わたしが突如得た精神の再構築においてである。あるいは、新たなる目、と単純に言った方が良いだろうか。そんなことは、前々回のエントリー「切込隊長はなぜ狂ったようにあれほど書くのか」を見れば分かる人は分かる。しかし、本当の意味でそこに何事が書いてあるのか理解できるのは、同一階層以上に上り詰めた人間だけに絞られる。当たり前の事だが、富士の8合目からの景色は、3合目にいる人には想像できないほど広大で美しい。それと同じこと。ただ、わたしは経験的に、この地に立つ人がごく少数である事を知っている。よく、「おれもおれも」という人がいるが、話を聞くとどうも違和感がある。なぜならばわたしが得たものは、禅で言えば「見性(けんしょう)」、浄土教で言えば「正定聚(しょうじょうじゅ)」にあたるからだ。つまり、釈迦が菩提樹の樹の下で得た世界、道元が天童山でホトトギスが鳴き山の竹が折れた音を聞いたときに得た世界、一休が命を捨てるつもりで月のない闇夜に琵琶湖に漕ぎ出したとき、闇に紛れたカラスの鳴く声を聞いたときに突如得た世界、これらと同一のものであるからだ。もちろん、現代社会においてこの種の世界を得た人は少数だけれども確かにいる。8合目からの景色を見た者は、同一の世界を得た者を、彼が発する周波によって「ああ、あいつもそうか」と感じる事ができるからだ。同一の視界を持つ者にしか発する事のできない周波、これはいつも独特の親和性を持って我が耳に響く。しかれば、分かり得ぬ人たちのことは「どうせ分かるはずもないのだから」と諦めればいいのか。いや、彼らは紛れもなく昨日のわたしであり、いつ目の前にある谷を飛び越えて、此岸からはインビジブルな向こう岸の大地の確かさをみずからの足に感じる時がくるやもしれない。できるならばわたしの言葉が、目に見えぬ大地に蒔かれる砂になればと願っている。

話を元に戻そう。当BLOGのベネフィット、つまりわたしの特異性。それは、この世界を得た者が、禅寺の奥に潜むじじいなのではなく、投資によって得た資金で世界中を旅し煩悩の限りを尽くす、ひとりのお調子者であるところだ。そこがチャーミングだとわれながら他人事のように思う。でも自分ならば、そういう人の話こそ聞きたいと思うから、このBLOGを立ち上げた。しかし愚かな人は、このエントリーを見ても何事が書いてあるのか理解できず、あるいは理解できないまでも、含有する情報の特異性を嗅ぎ分ける事もできず、誹謗するだけなんだろうな、きっと。わたしはただ、8合目からの景色の美しさ、さらには、そこからはまだ先がある事を知って欲しいだけなのに。


追伸:切込隊長どの 
今回でトラックバックの連発を控えますのでどうかご容赦ください。