★あらゆる表現は、その主導権の全てを「聞き手」が握っているという絶望からの出発

けん大佐さん
>僕のクソblogからリンクさせてもらいました。
>けむりんさんの生命を世間に忍び込ませる一助となれば幸いです。

特に自分なりにベストを尽くしたと思っているものに一文字でも付け加えるのは凄く嫌なのですが、これだけ反響が大きくなった現状で、此処にあるたったこれだけの文章の総量から「わたしの意図を誤解なきように受け取ってください」というのも不親切な気もしますので、蛇足だなと思いながらも少し解説してみます。断っておきますが、これは、けん大佐さん一人宛に書いている訳ではなくて、ここを訪れる人全体に向けて書いています。

当たり前の事ですが、何事かを相手に伝えるのに、直接的手法が最も有効であるとは限りません。アイロニーを含ませた方が、かえって相手に主旨を分かってもらえる、という事は良くある事です。相手の左手にあるものを見せたいときには右側に嫌悪を感じるであろうものを置いてみる、みたいな事です。わたしにその技術があるかどうかは別にして。

もちろん、そういうやり方が烏滸(おこ)がましいとは承知していますが、端(はた)から見たら陳腐な物事であったとしても自分がそれを伝えたいと願うならば、結果から見て万策を尽くさねば自分に不誠実な気がします。「自分自身の生命を、忍び込ませようとしている」というのもひとつの仕掛け。

いくらきれい事を言ってもわれわれ人間は、自らの自己中心性から自由になる事はできないのは悲しいけれどもこれ事実。当該エントリーは、多くの人の目を惹きつけることを狙うと共に、切込隊長に読まれる可能性も意識してのものなので、少し吸引力のある言い回しを使いながら、同時に表現を生業とする隊長へはアイロニーを飛ばしメッセージを送ってみたわけです。「人間の表現行動には、他人と繋がりたいという、全ての人間が背負った宿命的な寂しさを解消したいという欲望と、また外側に(いや、そんなものは厳密にはないんだけれども)影響を与えたいとする、ふたつの自己中心性が柱のひとつになっている事をもちろん自覚していらっしゃるんですよね」というメッセージを。

あと、お節介かも知れませんが、自分のことを卑下するような書き方は誰の得にもならないし、それはともかく、わたし(=けむりん)のためなどという回りくどい言い方をしないで、あなたはもっと「自分のために」行動した方が良いと思いました。誰に嫌われても、少しでも自分を誤魔化す苦しみを選択するよりはずっといい、というのがわたしの考えです。