★finalventさんちのBLOG「finalventの日記」の1/8の書き込みの中の一部「そういえば未明に急性劇鬱…」を拝読して勝手に思うこと。

finalventさんちのBLOG「finalventの日記」の1/8の書き込みの中の一部「そういえば未明に急性劇鬱…」を拝読して勝手に思うこと。】
 
なんというか、視野の鮮明化で解決可能なものと、それでは何ともならないフィジカルなものというのは階層が違うのではないかと思います。後者はケミカルな反応がより支配的だからです。

たとえばどんな高僧や思想家であったとしてもセロトニン受容体にメタ・クロロフェニールピペラジンなどを人工的に投与されれば、鬱になるのは回避できないでしょう。そう考えると知性などというのは頼りないものでもあるのですが、「いかに生きるか」ということにフォーカスされるのが人間が解決可能な領域だとするならば、基本的には極端にケミカルに影響されるとき以外の通常時に有効であればまずはその意義として充分なのでは無いでしょうか。そしてそれだけでなく、死の直前などの極限時においてもそのことがささやかな支えになるならばさらにその意義は増すのだと思います。
 
因みに私事を晒すのは品のないことのようで嫌なのですが、私も一時男だてらに遺伝性のバセドウ病が発病し、無知さからずいぶん症状を悪化させ、ホルモンバランスが酷く崩れたときがありました。あの時の不安感というのは体の根底から沸き起こるものであり、抗することのできないものでした。

しかし今から思えば、あの時の逃げられぬ死への予感があったからこそ直後の見性に繋がったのですから、物事というのは総じて連続性をもって観なければ腰の落ち着いた判断はできないということです。

そしてその後の思考整理の甲斐あって、今では、少なくとも通常時においては、死への不安は一切ないと断言できる。知性というのは、その程度の力は持ちうるはずだと思います。
 
 
(このエントリーは当該BLOGのコメント欄に書き込んだものを転写したものである)