★まるはさんの質問にお答えして

(「★ぼ〜くらはみんな生きている〜、生き〜ているから歌うんだ♪」コメント欄より引用)
 以前に質問させてもらったまるはです。
"見性"ってものになんだかすごく興味がわいて、ほぼ毎日見に来てます。
特に「すべてを疑え」という話がガツンときました。
でも、反対に疑問も出てきたので、質問させてください。
"見性" して、"確信に至った"として、その"確信"が"正確"("真実"?)だと、自分自身でどうしてわかるのでしょう。その"確信"、"世界観"、"価値観"が、自分がそうであってほしいと願っているだけのもの=フィクション"ではないということが。圧倒的な何かがあるのでしょうか。
("美"は"美"ですけど、それを"美"だと認識してるうちは、結局"自分"が介在してるからフィクションではないかと疑う余地があるように思うんです。かといって"自分"がないほど圧倒された場合、疑いようはないですけど、それがなんなのかも説明しようがない状態ではないかと) 

要点を捉えた質問だと思います。
見性後のわたしの精神状態がどのようになっているかから説明します。先ず、見性以前と比べて「自分というもの(自我といってもいいですね)」がずいぶん薄くなっています。ただ、その「自分というもの」の薄さが常に一定かと言うとそうではなくて、限りなくゼロ(というかゼロと言い切っても良いと思う)の状態から以前とさほど変わらない程度まで環境によって変動している、という状態です。もちろん見性前の人でも同様の変動を見せますけれども、そのレンジがかなり下方に下がっているということです。そして以前との最大の違いは、精神を落ち着けることによって、能動的にゼロまで濃度を下げることが何時でも簡単にできるということです(物凄くショッキングなことが起こるなど外部環境に突発的な事態が発生した場合には、難易度が上がり少し時間を要します)。で、その濃度ゼロの状態で世界を見ると、圧倒的に精密且つ一切の過不足なく(つまり圧倒的な美的さでもって)運行を続けている世界の状態を見ることができる、ということになります。

だからご想像の通り、この状態にあるときには、わたしは一切の思考を行っていません。自分(自我)が無くなっているのだから当たり前です。だから能動的に見ている、というよりも、自分の胸板が鏡になってそこに世界全体が映り込んでいる、という感触です。そして暫く観察して見てきたものを頭の中で整理する。もちろん、この作業段階において歪みや誤解が発生します。だから一旦組み立てたものが歪んでいないかどうか、また自我をゼロにして見に行くわけです。これを何度も繰り返している内に、だんだん認識の歪みが矯正されていく。わたしが行っている「観察」「洞察」というのはこういう作業です。
以上のことを踏まえ冒頭のご質問に答えましょう。

"見性" して、"確信に至った"として、その"確信"が"正確"("真実"?)だと、自分自身でどうしてわかるのでしょう。その"確信"、"世界観"、"価値観"が、自分がそうであってほしいと願っているだけのもの=フィクション"ではないということが。圧倒的な何かがあるのでしょうか。

実は、それが真実かどうかはよく分かりません。ただ圧倒的に精密で完璧な世界が目の前に広がっている、という驚きがあるだけです。正直、はっきり言ってしまって、それが真実かどうか、ということなど、もうどうでもよくなってしまっています。こんなに美しいものに自分は包まれているんだから、それが真だろうが偽だろうがどっちだって良いじゃないか、と。これが本心なのですが、こういう説明でご理解いただけますでしょうか。どうでしょう。