★千年後の世界

みなさんトラックバックやレスをどうも。とても参考になっています。さて、最近もらった読者からの一連の反応を俯瞰すると、少しうがった見方かも知れないが、こちらが強調したい部分についてはほとんど反応がなくさらりと流され、さして肝要でもない部分に強く反応されているような気がする。これは、わたしの文章力の未熟さや、読者をある程度退屈させずに文章を読ませようとするある種の「媚び」を織り交ぜていることなどからくる「表現の脇の甘さ」、さらにはエントリーが長大化しすぎるとBLOGとしての体裁に合わないことから表現を必要最小限にしているなどの「話し手サイド」の要因が主因ではあるのだが、「聞き手サイド」である見性前の読者の方にも、自分に都合の悪い核心を無意識に避けようとする性質が強く内在しているという事実も、改めてそこに見て取れるような気がするのだ。

たとえば、先日のエントリー「★連続レス その3」のなかで、自分としては割と隙がなく書けたな、と思っていた「(キリスト教は)クリアー前の世界におけるフィクションがそれを支えているがゆえに、過去の世界の価値観から自由になることができない。」と言う所などは、きれいに無反応だった。これなどは逆説的に読めば、「ということは、過去の世界と決別するためには(見性するためには)、われわれの中に意識的・無意識的に深く内在しているキリスト教的救済構造への幻想(希望)という甘えを徹底的に破壊することが必要なんですね。」とか、「なるほど。論理的にも、見性後の世界の価値観が既存世界のそれと完全に切り替わる為には(既存世界の価値観から完全に脱却し、新たなる世界観が広がっていく為には)、既存世界の価値観(ストーリー)がそれを支えていては話になりませんわな。つまりそのあたりが見性という新たなる世界へのダイブの鍵となると言うことですかな」ぐらいのレスがあっても良さそうに思う。(*注:「完全に切り替わる」「完全に脱却する」と書いたけれども、究極的な意味で「完全に」そこから自由になるのは、おそらく最終局面の中の最終局面(ドラクエ4のフィナーレ)においてです。ここでは見性前と価値観がほぼ完全にひっくり返ると言う意味で使用しています)

しかし、振り返ってみれば一連のエントリーも膨大化の一途をたどっているし、「答え」を予め知っている見性後の読者ならともかく、そうではない見性前の読者ではその読み解きが容易ではないことも十分承知している。また、見性後のその先の世界を全く書かないのでは納得が得られない、という批判も散見されることから、このあたりで、見性するためには何が必要なのか(結局、何が問題で圧倒的多数の人は見性出来ないのか)、そしてそこで一旦既存の世界観・人生観が終了するけれども、そのまま突き進んでいけばその後どういう世界が開けていくのか、ということを簡略かつ俯瞰的にまとめてみよう。

1.人はなぜ見性出来ないのか
構造としてはいたってシンプルである。自分が見たいようにこの世界を見ているからだ。そこには必ず歪みがあり不整合がある。その歪みを矯正し、シンプルかつ徹底的に世界を観察したとき、人はすべからく見性する。

解説:人間は自分にとって都合の悪いことには徹底的に蓋をしようとする。それを見ないように、あるいは見えたとしても、それにありとあらゆるフィクションを塗りたくりそれを変質させることによって本来そこにあった不都合さを隠蔽しようとする。「自己の死」が良い例だ。人間はキリスト教の救済構造やそれに準じた幻想を抱き、解決されぬ懐疑と共にそのフィクションが生み出す「奇跡」に憧れを抱き続けている。ただ、先日のエントリーでも少し書いたが、「キリスト教的なもの」にもある程度の効能(機能)はある。しかしこれは人間が進化していくプロセスから見れば前駆的なものだ。個人的には、そろそろ人間は「キリスト教的なもの」という幼稚舎から卒業しても良いのではないか、と考えている。確かに、「キリスト教的なもの」が隠蔽する現実は、容易には受け入れがたいほど残酷なものだ。しかしその壁を乗り越えた時にあるのは絶望だけではない。絶望した者だけに与えられる絶大なる報償は、その絶望を完全に包み込むものであることをわたしは知っている。そして分かる。キリスト教的奇跡が一切起こらないことこそが奇跡そのものだということを。

また、人間は、「自分やこの宇宙が存在している予め用意された意味」などというものを何時までも求めたがる。しかしこれもまた「キリスト教的なもの」でありもちろん幼稚なものだ。幼稚であると共に、その前提には何らかのフィクションを必要とするがゆえに視野の歪みが要求される。これでは、いつまでも目の前の世界の運行が完璧であることに心打たれることはできない。完璧なものは常に身も蓋もなくいつも残酷であるのだが、それがゆえに一切の無駄がなくどこまでも美しい。しかし美的なものに打たれるとき、人はその意味を問うだろうか。そもそも美的なものに打たれているとき、人はそのような思考と共にあるだろうか。否、美に邂逅しているとき人はすべからく思考だけでなく自我そのものをその瞬間失っているはずである。だから視界を歪ませる大前提的理由など求めてはいけない。しかしだからといって自分の人生に絶望するだけでは終わらない。なぜなら、人生や宇宙の意味というのは「大前提的には存在しない」ものの、ある稀なる瞬間瞬間において「局所的、事後的に発生する」からだ。

つまり、あらゆるフィクション(つまり自分の願望)を「疑い」、徹底的に破壊するべきなのだ。そして視覚の歪みを矯正し、目の前の世界がどのように【運行】しているのかを、ただひたすら「観察」し、ただひたすら「洞察」する。このとき「観察」もそうであるのだが、「洞察」が足りないと見性には至らない。とにかくそのふたつの作業を徹底的に繰り返す。するとついにある瞬間が訪れる。すべてにフィクションが失われ、すべてのパーツがたまたま整合したとき、それが訪れる。それが見性の瞬間だ。すべからく人はその時、自分は世界の「運行」から全く孤立しておらず、むしろその一部であり全部であることを知る。同時に強烈な宇宙との一体感を感じる。宇宙の全体が自分の体内に流入し、そのエネルギーが貫通するのを感じる。宇宙とのセックス。これには当然、超強烈な快感が伴う。そして暫くしてその熱と感動が次第に冷めてくると、静謐な世界観のみが目の前に残される。整合が取れ、辻褄があった静謐な世界観。それはもちろん、以前とは全く違う新たなる世界の始まりだ。しかし、残念ながらほとんどの人はそれから強い孤独を感じることになる。見性する人が圧倒的少数であることからくる社会的孤立感。価値観がひっくり返ってしまっていることからそれは不可避なものだ。時として既存社会の価値観の中で生きていくことは、耐え難き苦痛を伴う。そして見性後の多くの人間は、肉感を持った同類を周辺に見つけることができず、あるものは突き抜けた壁の前からいつまでも離れることができず壁の向こう側の人間と表層的繋がりをもつことによって決して埋められぬ孤独感を少しでも埋めようと足掻く。何年かの孤立を経て、師と巡り逢ったり、本の中に友人を見つけられたものは幸福だ。その者達は、さらなるその先への道すがら、ようやくあの見性がやはり意味があるものであったことを、「事後発生的に」その足の裏から伝わる確かなる感触から確認することができる。そして、行き着くべき彼方への道のりを、道の脇に咲く名もなき花を嫋やかに愛でながら、次々に捨てられ、更新されていく自らの世界観の変容を、静謐かつ深い喜びと共に受け止めながら前進していくのだ。

2.見性後の価値観がどのように変容していくのかのプロセス
ここから先は、見性を体験していない多くの読者にとってやや抽象的なものになってしまうことをご了解いただきたい。というより、本当は見性前の読者には、混乱や曲解を避けるためにも正直言って読まないで欲しい部分がかなりある。連続したプロセスを経ずにいきなり先行した深層にぶち当たるというのは、それが仮に真理だとしても、危険だしそこから新たに派生する生産性もないことから決して良くないとわたしは思う。

それでも今回は邁進することにする。見性を経ると、まず世界が完全に均衡を保った調和的かつ相関的世界であることに気付く。ただのひとつの事象も孤立して存在し得ないことに気がつく。ここでいう事象とは、視覚可能な物質だけに止まらず、物理的な運動や人間の思考に至るまで、宇宙に内包される有形無形の一切を指す。当然人間が思考可能な神などもすべてここに含まれる。そして、それらの事象ひとつひとつが宇宙全体にいかに強い影響力を発揮しているのか、ということが分かるようになる。目の前の名もなき小さな石ころがいかに強い存在感と影響力を宇宙に発揮しているのか、そしてそれを動かすという作業がいかに強い影響力を宇宙に行使するのか、と言うことが視覚的に見えてくると言うことだ。そして当然、それぞれの事象が現在どうしてそのような事象として存在しているのか、という原因究明の流れに目を向けることになるのだが、その逆フローチャートは、「少なくとも」宇宙の起源までは遡るということがすぐ分かる。そしてもう少し継続的に世界(いまさらながら宇宙と世界は同義だと解釈して欲しい)を観察し続けると、世界が相関関係のなかでただのひとつの事象も孤立することなくただの一瞬も止まることなく流動的運動を続けていることから、宇宙の起源などと言うものはそもそもあり得ないのだと言う確信に至る。このあたりから、空間的距離感や数直線的時間性というものの絶対性がかなり疑わしくなってくる。もっとはっきり言ってしまえば、空間的距離感や時間的厚みをもう少しで乗り越えられそうな気がかなりしてくる。また当然ながら、本質的レベルにおいては、「悪」などというものは存在しないということも既知のものとなる。もちろん「善」などというものもその領域においては存在しない。その対立するふたつは、相関的世界観に気付く前の未熟な人間が独善的に規定した、それら人間の愚かさの証左でしかないということに気がつくと言うことだ。少し難解かも知れないので次の部分は読み飛ばしてもらっても構わないが、仮に少し表層的な方向に観察の階層を上げ、善が真として存在すると仮定しよう。さすれば、全くその対極にある悪もまた、完全なる真となる。ある真理があるならば、それと全く対極をなす別の真理も同時に存在し、それらは表面的に対立するように見えてもそれらが完全に対極にあるのならば同時複合的に真として存在する、ということだ。そしてすべての事象においてそれを突き詰めていくと、ついに「一切は真である」という真理に到達することになる。一切が真理であるならば、そこではもはや空間的大小や、時間的尺度というものは意味をなさなくなる。そして真理にぶち当たり、さらにその後も観察し続けるただひとつの方法は、「洞察」することを停止し、「思考のない観察」というものに態度を変更するしかない。誤解しないで欲しいが、これはたんなる思考停止とは全然違う。洞察し洞察を繰り返して、考えて考え倒して、最後の最後で思考を停止し脱力して、そのリラックスした状態の体全体で宇宙を観察するということだ。これは例えるならば、スケートリンクのイメージだ。全速力で助走して最大限まで加速したところで、前方にダイブする。すると限りなく等速直線運動で氷の上を滑り、体全体のスケーティングが行われる。これとほぼ同様のイメージで、体全体を使って宇宙をスケーティング(あるいはドラフト)する。上手にスケーティングするためには体に力を入れてはいけない(洞察してはいけない)。わたしが現時点において到達しているのはだいたいこのあたりだが、現在考え得る究極の終着点がどのあたりかは分かっている。「存在と非存在」という究極の相対からの脱出だ。これはずいぶん手強いし、当面完全にそれから自由になるのは難しいかも知れないけれど、それがそう遠いところにあるとも思えない、というのが現状だろうか。わたしの知り得るところ、見性後の世界の変遷とはだいたいこういうものだと思っている。そしてもちろん、最終到達点のさらなるその先に、現時点では想像もつかないような新たなる世界があるという可能性は、誰にも否定できないと考えている。





>まるはさん

そもそも人は(できることなら)見性すべきなのか、ってとこからお願いします。

自分は"見性"を体験していないし、まだどういったものか理解もできない立場だというせいかもしれませんが、映画マトリックス(1)では「なんで主人公ネオ達は仮想現実をぶっ壊して、すべての人に(つらい)"真実"を見せようとするんだろう?」と思いました。
●自分の置かれている正確な状況・実世界に"気づいた"人=主人公ネオ達="見性"してる人
●何の疑いも持たずに"仮想現実"の中で暮らしてる"気づかない"人=普通の人達="見性"してない人
って似てません?

「そもそも人は見性すべきなのか」というのは良い切り口だと思います。それはおそらく、人間の進化の過程において、どの時点を判断の基準とするか、ということになると思います。ドストエフスキィの『カラマーゾフの兄弟』のなかに、有名な「大審問官の章」というものがあってこのことについて論じられているのですが、人間が未熟な段階にあるのなら、現実を見せるのは酷であり、囲まれた仮想現実の中で遊ばせておくのも良いのかも知れません。しかしながら、絶望が絶望のままで終わらず、新たなる光あふれた世界への登竜門であるのなら、機を見計らって人々はそこに挑戦するべきではないのでしょうか。『カラマーゾフ〜』の終盤にも、「大審問官の章」を作中で制作したという設定の天才的登場人物イワンがノイローゼになり、自らの幻想が生み出した悪魔と対峙し、その悪魔が「大審問官の章」を謎解きしていくという場面があるのですが、その中においても「人間がするべきことは神を徹底的に破壊することなんだ。そうすれば人間は人生が短いなどと嘆くには当たらず、ただ互いに尊重しあい、瞬間に燃えさかる生の喜びにうちふるえながら生きていくことになるだろう。・・・しかしね、人間社会がそういうことになるのは千年先のことさ」ということが書かれてあります(テキストが手元にないので本文とは多少違うとは思いますが、要旨はこういうことです)。わたしはこの場面こそ『カラマーゾフの兄弟』のクライマックスだと思っているのですが、ドストエフスキィ読みのなかでも「大審問官の章」の評価はすこぶる高いのですが、この悪魔との対峙場面は、意外なほどに評価が低い、というかほとんど評価がない、というのが現実です。これもまた結局、見性後でなければ、ドストエフスキィの真意が読み取れない、という当たり前の結論なのでしょうけど。それと、映画の『マトリックス』は良くできているけれど、やはりフィクションがそれを支えているし、現実を見せる根拠が「それが現実だからだ」というのではあまりにもお粗末です。本当に物事が見えているのなら、終着点が新たなる出発点であることは分かっているはずだろうに、あの映画には新たなる出発点(=出口)が感じられない。もちろん壁の突き抜け方も全然足りない。そういう意味で、ある程度の評価はできるけれども、やはり依然かなり低次元だと思います。



>通りすがりさん

体験して始めて明らかになることが、けむりんさんの文章を読んで、その中に含まれているヒントを解読すればけむりんさんの世界観がわかるということなのか? それともヒントを解読し、その上で日々ドラクエをクリアする事に励めば、けむりんさんの世界観がわかるという事なのか?

聖書を読んで、お祈りをすれば、悟る事ができるというのは新興宗教に近い。
どちらにしろ悟りが得られない理由が「お前の信仰が足らないから」「お前の努力が足りないから。」という仕組みの世界観はどうなんでしょうか?
悟ったと言ったもんがちになる傾向あり。

まぁ実際わたしの文章を読んでその中のヒントからわたしの世界観を解読しろ、というのは不親切でしたね。そんなわけで今回やるだけやって骨子を明らかにしてみたつもりですがいかがでしょうか。少なくともいただいた批判を自分なりには真剣に受け止めたつもりです。

>万人にとって世界観を一変させるようなところであると確信しております。

・・・まあでも、そんな世界があるなら、深入りはしたくないが覗き見はしたい。期待してます。

ずいぶん前にも書いたことなのですが、この世界はフィクションでないがゆえに、一度覗き見てしまうと、二度と後戻りのできない世界です。新聞や雑誌の片隅にある「間違い探し」の答えを一度知ってしまったらもうそれを忘れることができないのと同じ構造です。このあたり『マトリックス1』でも薬を飲むシーンで同じ場面がありましたね。しかし、現実には簡単に覗き見させられないものだから、わたしを含め先人達は苦労している。正直、「お試し期間」があれば本当に楽なのにな、と時々嫌気が差したりします。わたしこそ、近い将来、あなたがこちらにいらっしゃるのを期待しています。



さて、>けん大佐

なにを寝ぼけたことを言ってやがる、この野郎!!

強烈な宇宙との一体感を伴う見性が「快感」なしに訪れるわけないだろ、アホか、アホなのか、お前は!!その「快感」は、その時点では何物にも代え難い賜物ではあるが、それが冷めてしまったら、何時までもそれにしがみついているわけにはいかないのは至極当然。それなのに、突き抜けた壁の前で何時まで過去の快感を引きずって何を寂しそうにしてやがる、このスカポンタン!!論理的根拠が希薄だから、などと非論理的な寝言を言うのは、彼女と一緒のベッドの中だけにしやがれ、この野郎!!論理などいつも絶えず目の前にある。曰く、「観察」と「洞察」に対する集中力がお前ごときのそれでは全く足らんということだ。せっかくたまたま見性して、目の前の整合性が以前より格段に取れているのだから、そのきれいに整地されたフィールドでちゃんとプレーしないか、この野郎!!もちろん、能力がどうのなどという戯言はナンセンスだ。これは、貴様の人生で、貴様自身の問題なんだからな。分かったか、分かったなら、目をこらしてもう一度目の前を観察しやがれ、この野郎!!

というように、突き放すだけではいかにも不親切で、実際ロクに進みもしないだろうから、そんなお前には俺様的推薦図書を紹介する。鎌田茂雄著『華厳の思想』(講談社学術文庫)税込み1008円 という物件だ。はっきり言って決して易しくない代物だし、歴史的部分や経典の構造部分など一部退屈な箇所もある。しかし仮にも哲学科の院生で、しかも自分の問題と直結するのなら、このぐらい読めるはずだと俺は思う。もちろん、退屈なところや難解なところは大胆に読み飛ばして、読めるところだけ読んでいけばいい。それでもきっといまのお前には刺激的でなにより楽しく、心打たれるインテリジェンスが山ほど溢れているはずだと俺は思うよ。とにかく、こればっかりは即購入しろ!売り切れたら悲劇だぜ、分かったな、この野郎!!今だぞ、今!!

それと本件とは直接関係がないかも知れないが、そのうち機会があれば、ちょっとだけ現実世界で顔を見せてやってもいいぞ。見性後の人間に逢う、というのはお互いにとって嬉しく刺激的なことだからな。





【あとがき】過去の見性に関わる一連のエントリーを一旦まとめると言う意味において、今回のエントリーはそのターニングポイントにあたるわけだけど、それに伴ってここ数日、ある程度の時間を掛けたり、時には距離を取ったりしながら色々と考えた。しかしその甲斐あって、今回のエントリーは、きめの粗さはあるがそれなりに書き切れたのではないか、と自分では思っている。またそれだけでなく、BLOG以外の現実社会のチャネルにおいて、この種の情報を発信していく為にはどういうアプローチで攻めればいいのか、なにがしかのものが少し見えた気がしているのだ。ゴルフで言えば、パットする前に光るラインが見えたと言う感じだろうか。正直、これを書き始める数時間前に、「よしっ、これならいける」などと一人でガッツポーズをしていたということなどは、このBLOGの読者にはほとんど関係ないことであるが、後日の記録のためにここに書き残しておくことにする。新しいアプローチで語られる構築的なそれの完成が、今から楽しみだ。