★評論家にすぎない山本一郎が文学のあり方について悩んでいる件について

作家と評論家というふたつのカテゴリーが以前からある。とかく二極論で物事を捕らえたがる単純なキリスト教的思考が蔓延する現代社会に於いて、多くのカテゴリーはその区別が相互浸食的で境界のはっきりしないものも多いのだが、作家と評論家というカテゴリーはその中でも比較的境界が曖昧ではないものだと思う。本来的に作家というものは他人の評論などと言うものを生業としない。反対に評論などをしているヒマな人間に小説など書けるはずがない。詩人は詩人以外の何者でもないということだ。

そういう視点で山本一郎切込隊長を一瞥したとき、判断に必要な時間などほとんど必要ない。全くもって逡巡しない。彼は後者以外の何者でもない。なぜ彼が評論家たり得るのかと考えると、投資家として類い希なる才能を持つがゆえに常に経済合理性から自由でないこと、ソースのクリエイトというよりもそれを分析することに慣れすぎていること、本質的に孤独から自由でないこと、などがすぐに思いつく理由であろうか。

当然のことながら、作家にも単なる読み物作家とドストエフスキィのような本質的詩人との分別がなされる。彼が今回の彼のエントリーで「電車男」や「携帯文学」などと司馬遼太郎などを明確には区別し切れていないのは愛らしい限りであるが、そのあたりが彼の大衆的人気の源泉でもあるので世の中というのはどこまで行っても皮肉なものである。

作家というものは、能動的(選択的)職業なのではない、受動的(不可避的)職業なのだ。