★「カラヤンの音楽は明らかに別世界を意識したものだ」下記ドキュメントビデオに収められた証言から引用

さて、名前を変えての粘着マルチポスト・コピペ野郎は放置しておいて次に行くぞ。
しかし、あいつは本当に金持ちなのか?かなり信じがたくなってきたぞ。

ところでおまえ達、音楽はどんなのを聴いてやがるんだ?どうせ、J-POPとかラップとかジャズとかを楽しそうに聴いている呑気なスカポンタンも沢山いるんだろう。

こういうことを言うとまたスノッブ臭いとか言われてしまうのかも分からんが、正直俺様は「壁抜け」以降の6年間、クラシック以外は聴けなくなってしまっている。クラシックは他のあらゆるジャンルの音楽と性格を異にする。約200年前に作曲されたベートーベンや250年前のバッハが未だ演奏されていることからも分かるように、そこには普遍性と、普遍性を獲得するための飽くなき挑戦が繰り広げられている。以前「全く関係のないカテゴリーのものに見えても、普遍的なものには共通の周波がある」と書いたはずだが、当然、クラシックにも根底にそれがある。

先日、ジャン・リュック・ゴダールの言葉を紹介したが、それを音楽において実践しているのがヘルベルト・フォン・カラヤンだ。彼は、リハーサルで各パートごとに物凄く細かく注文をだし、一切の妥協を知らないことで有名だったが、百人を越えるオーケストラに対しても、全く身じろぎすることなく、揺るぐことのない絶対の自信を持って指示を出す。なぜか。答えは簡単だ。あるべき音を、あるべき音の大きさで、あるべき音の長さで、あるべき位置に「配置」しようとしているだけからだ。もちろん、やり方が分かっているからと言って誰にもできることではない。彼には完成型のマップが見えていたからであり、そこに導くコミュニケーション能力を有していたからなのだが、いずれにしてもそうして「顕在化」させられた音楽は、恣意的に創作されていないだけに普遍的なものとなる。こういうことを理解するためには、映像で彼のリハーサル風景を見るのが一番なのだが、それをかなり分かりやすく見ることができ、そう言う視点でそれを見ればもしかしたら何人かは見性への準備が整ったかも知れないドキュメントビデオ『カラヤン・イン・ザルツブルグ』をアマゾンで検索すると、数年前は引っかかったのに、もう該当なしになっていた。物凄く残念だ。物凄く残念だが、これはいつものパターンだ。読まれるべき書籍は売れ残り、見られるべき映像は放置され、やがて廃盤になっていく。おまえ達がのんきにJ-POPなどを聴いているうちに希有なる遺産は失われ続けているのだ。何時まで同じことを繰り返すのか、と叫んでみてもまぁ仕方のないことだけどね。

俺様はもちろん持っているから良いのだが、もし興味があるのなら、ぜひ中古品市場や図書館などで探してみて欲しい。真っ赤なポルシェ959でザルツブルグの森をぶっ飛ばすカラヤンは痛快でそれだけでも見ていて楽しいし何よりその映像の美しさに心打たれてしまうが、彼の言葉、表情、音楽に対する姿勢のすべてを注意深く見てそれでも何も感じないのなら、捕らえられた貴様の釈放はもう少し先の話ということだ。




関連ページ

「カラヤンが残してくれたもの」
埼玉の聖学院大学の図書館にはあるらしい

もし何処かで見ることができたのなら、「見たよ」だけでも良いので
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