★コメント欄での批判を受けて2 &レスいろいろ

KENさん

>強く感じるのは、その禅問答の過程で自分がその禅問答であるがために仕方が無く取ったさまざまな説明手法については、本人の精神世界の問題だから正当であると主張するが、他人が同様の説明手法をとった場合は一律、それは歪んでいると批判し切り捨てている。非常にフェアじゃないですね。<

KENさんのご説明はやや省略的ですので、何度も読み直してみたのですが、わたしが本当に読解できているのか正直自信がないのですが、ただ本当に「この世界が一から十まで相対的な世界である」ということを理解しておられるのかには、疑義を感じずにはいられません。何事かを伝達しようとしている相手にそれを伝えるための手段は、その差異を明確にすることです。至極単純な構造です。それによって相手の現状を浮き上がらせ、相手がそう望むならば、こちらの世界に引き入れる。わたしがやっているのはそう言うことです。わたしは、自分の説明手法が正当で、他人のそれは歪んでいる、と切り捨てているのではありません。絶対的に表現が相対の世界から自由でない限り、すべての表現は本質的に意味のないメタファーだと言っているのです。フェアではない、と言われますが、自分のも他人のも、ともに無意味だと言っているのに、そう言う批判が成り立つのでしょうか。観るべきは、指先ではなくその先に示される「何か」であると。結局、それぞれの表現に観るべきそれがあるのか、ないのかに尽きると思います。

しかも、すでに書いているように、「有意義なのは他人との比較なのではなく、昨日の自分との直列的な比較なのだ」ということを明示している。そういうステージに置いて、わたしが他人を見下してそれで満足しているだけ、と言う結論が可能なのでしょうか。
(これについては、KENさんへのレスの最後でもう少し詳しく書いておきます)

もちろん、表現にはいろいろなやり方があるのでしょう。相手に配慮してやんわりと言ったりするのもその一つかも知れません。しかし、自分で自分の世界観に強い自信を持つならば、優先されるべきはプロセスではなくその結果です。わたしと同様の世界観を伝達するために、いままで先人はさまざまな試みをしてきました。しかし一部の例外を除いては、ほとんどそれは伝達されていない。であるならば、今までと同じやり方を踏襲して何になるのでしょうか。しかもわたしは現在、個人のBLOGをつかってそれをやっています。迷惑メイルなどのように望まない人にも無理矢理読ませている訳じゃない。トラックバックはもちろん掛けますが、基本的には読み手に「読まない選択権」が付与されている。ならば、わたしがどんな表現方法をとったとしても、それがたとえある人には他人を見下している「だけ」にしか見えなかったとしても、エキセントリックなスタイルはそれも肯定されるのではないでしょうか。

>何を根拠にそこまで自信があるのかな?と少なくともこのBLOGを精査しても、その他人に対する優越性というのは、お金をもっていたり、飛行機のクラスであったり、雇われ人でないステイタスであったり、日本を出て語学学校で勉強していたり、世俗的なこと+優学生が往々に感じる新たな世界へのときめきと「日本は駄目だ」的な振り子がもとに戻るまでの一時的な振幅しか見えてこないのですが。<

なるほど。KENさんは、そのパターンでわたしを捉えていたのですね。とてもよく分かりました。

ボトムラインとして前回のエントリーは根拠もなく、「自分を批判した彼ら」を下に位置づけ見下ろす内容であったと思います。これはそうではないと言い訳しても、10人見れば10人そう感じるし、それ以外の意図ってあるのかな?と<

ねえ、KENさん。わたしのなかに、見下したりする部分がないわけないじゃないですか。わたしは人間なのであり、仏様ではないのだから。もちろん、人を馬鹿にもしますよ。結構ひどく。しかし、そういうことを言うと、プリズナークラスの人たちは、すぐ「それ見たことか!」と、鬼の首を取ったように喜ぶことでしょう。しかし、その見方はあまりにも浅く、いや薄っぺらい。

人間というのは、ひとつの事象との出会いに対してただひとつだけの感情が生まれるのではない。ポジティブなものから他人には到底言えないようなネガティブなものまで、おそらくそれは、過去にあった自分の経験の蓄積すべてに同時アクセスして、瞬間的に万のレスポンスがわき起こる。人間の感情のポリフォニズム。

繰り返しますが、わたしはプリズナークラスの人たちを馬鹿にしていますし、それ以外にも、できれば自分の視界に入らないで欲しいと願っているくらい嫌悪感を感じる人間も沢山います。これは事実です。しかし、本当はこういうことを言うのはすごく嫌なのですが、同時にそれらの人を含めすべての人に対して深く悲しんでもいます。早く気付いてくれよ、と心から思います。信じてもらえないかも知れませんが、これもまた事実なのです。

そしてまたわたしは、指先のその先にある「何か」を偶然にも見てしまった。この世界がどのように運行しているのかを図らずも知ってしまった。その壁抜けを経過すると、どんなに馬鹿にし、大嫌いな人間であっても、この宇宙に不可欠で、あらゆる差異のない、すべて尊重されるべき大切な存在であることに、気付かずにはいられないのです。

以上ですが、これでは答えになりませんか?





教授さん
>語学学校に行くというフレーズが、日記の内容とイマイチ噛合わないところがとても好きです。私も語学学校に行ってましたが、けむりんさんのようなクラスメイトは見たことありません。語学学校に行くって事が意外です。<

わたしの英語は、個人旅行を積み重ねることによって実践的に覚えたものなので、勢いはあるのですが、ディテールが甘いのです。語学学校に行く前は、政治的な問題はなんとか語れるものの、思想的な問題はとてもとても、というレベルでした。

でも、ご存じのように、さまざまな文化のバリエーションが前提となる日本以外の国々に置いて快適なサービスを享受しようと思ったら、正確な意思表示が必要となります。たとえば、基本的にシンガポール航空のファーストクラスは世界最高水準ですが、英語が話せなければその魅力の半分も引き出せないでしょう。そして、これからは当然のことですが、英語などは大前提中の大前提、プラスもう一カ国語(当然日本語は除く)話せないとかなり選択肢が不自由になるという時代が来るはずです。だから、36歳の身空で少し恥ずかしくもあるのですが、自分はそういうスタートラインなんだからと受け入れて、しかし明るく楽しく堂々と日々通学(照)しています。

あと、わたし自身も、教授さんが仰るようなそういう噛み合わなさが気に入っています。わたしは語学学校にも平気できれいな服を着ていったりするのですが、はっきり言って最初は浮きまくっていました。でも、分からないところは徹底的に質問したり、クラスメイト(照)のすべてと対等に付き合う姿勢を通底するうちに、少しずつわたしの全体が受け入れられていく、それはとてもエキサイティングな体験です。これは、構成が多民族だから特にそうなのかも知れませんが、語学学校はそういう柔軟性がより高いような気がします。もちろん、ニューヨークで英語がしゃべられない人たちなのだから基本的に彼らの所得レベルは高くなく、そこに容易には割り切れないジレンマがあるであろうことは承知しております。わたしは彼らが苦労して稼ぎ出す大切なお金を、汗も流さずにワンクリックで稼いでいます。クラスメイトとふれあうとき、そこにはやはり何処か罪悪感のようなものを感じずにはいられません。しかしわたしはもちろんそんな素振りは全く見せずに、普通に付き合っています。なんだか、悪くないでしょ、こういう関係。わたしは好きです。

>ただ、一つ疑問なのは、ニューヨークはパリより暖かいんでしょうか?
カナダのバンクーバーに住んでいるので、東の事はよくわかりませんが、体感温度は相当なものだと思うんですが・・・。<

気温は、パリとニューヨークでさほど変わりません。かなり寒いです。ただ、パリの方が単純に緯度が高いのです。ネットで検索したところ、パリが48.52度、ニューヨークが40.45度、ちなみに、東京が35.40度、お住まいのバンクーバーが49.13度ですね。ニューヨークとパリで8度も違います。これは当然日照時間の違いを表し、わたしはその暗さを嫌ったのです。笑えない話なのですが、去年の十月終わり頃パリに滞在したときに、朝八時半頃、朝ご飯をホテルの外で食べようとサングラスを掛けてロビーを歩いていたら、ホテルマンの皆が驚きの表情を浮かべながら挨拶をする、なんだろうと奇妙に感じながらホテルを出ると、外は真っ暗、まだ夜だった、ということがありました。また、そういう夜の深さがあるのでしょう、春になって日射しが少し明るくなると、パリでは、公園という公園、教会という教会の広場のほとんどに人々が大挙して、「目刺し」のようにみんなで長時間日向ぼっこをしている光景が見られます。わたしが冬の期間ニューヨークに滞在しているのはそう言う理由からなのです。




どぐされ外道さん

>大金持ちが自家用機乗ってて、モナコのレストランなんぞ行かずに、自宅にシェフ呼んで晩餐会やっちゃう事くらい十分承知の上で、ファーストクラスに乗る小金持ちのスノッブ臭ぷんぷんの話をアイロニカルにエントリーしているんじゃないのですか?<

少しは空気読んでくれよ、と言うのが正直なところです。種明かしするとつまんないでしょ?

それから、あれはたぶん村上春樹だったと思うんだけど、「冗談やアイロニーが通じなくなるのは、(その聞き手にとって)良くない兆候だ」と言っていました。わたしは本当にその通りだと思います。多少のアイロニーを聞き流せなかったり、冗談を真に受けて腹を立てるようでは、その人の閉塞感は強まっているということです。そこにこそ危機感が必要です。

当たり前のことですが、自己循環が最もいけない。われわれは常に外側の価値観への窓を開けて、風通しを良くし、精神に余裕を持って、全く価値観の違う他者の話に耳を傾けることができる状態を保つべきなのです。

>文学にせよ哲学にせよ、読む人がかってに理解して解釈してしまうところが言葉の難しいところでありまだ楽しいところでもあると思っているのですが。<

この一文には物凄くインパクトを受けました。他者が毎度毎度なかばインテンショナルに誤解することに悲しんでいるだけじゃなくて、それを楽しんでしまう余裕。これは素晴らしい態度変更ですね。この発見は、これからのわたしの精神状態をずいぶん楽にしてくれそうです。良いことを教えていただき、本当にありがとうございました。

今回のレスは以上です。(長いね)